2012年02月25日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 18


■ 安楽死について

  また日本兵や日本兵の死体に出会うことがなくなり、心細くなりだした。今日は谷川に下りて、川に棲む小魚や昆虫類などを採集しようということになり、斜面を這いながら降りていった。多分、ブランゲ川の上流だと思うが、谷川にしては大きかった。

   突然であったが川辺で3人の日本兵に会い、急に元気づいた。二人は男性だが、一人は女性だと想像した。何部隊かと尋ねると、マライバライの野戦病院の衛生兵だといった。

   私はマライバライにはよく食糧の現地調達に出かけたことがあり、その時、粗末な病院に歩けない傷病兵が沢山いた記憶があるので、皆と一緒に山中に逃げ込むことのできない病兵はどうしたのだね、と尋ねた。

   とても衛生兵や看護婦と一緒に山中に連れ込むことはできないので、残念ながら,これです。といって注射のしぐさをした。何たる悲劇だ、それも戦友愛なのだろうか。

   戦陣訓に示される「生きて虜囚の恥を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」。しかし若し家族の人に話せば、米軍に引き渡し捕虜として治療し、元気で復員させて欲しかったと、嘆くのではないだろうか。

   私は安楽死を選ぶか、白旗を掲げ捕虜となり、アメリカの病院で健康を回復させ、復員させる方を選ぶべきか、心の中で自問しながら、話を食糧確保と健康を保つ方法等に戻し、お互いに元気で頑張ろうといって別れた。 



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2012年02月24日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 17


■ 日本兵との恐るべき出会い

 大隊が分散して20日余り経過した頃であった。5〜6人の日本兵が輪になってしゃがんでいるのに出会った。久しぶりに日本兵に出会った懐かしさと、畑の有無が聞けるかもしれないという期待感もあって、歩を早め近づいていった。

  輪の中を覗いてみると虫の息の兵が倒れており、その爪をはがそうとしていた。「まだ生きているではないか」とたしなめるように言うと、「ここまで連れてきたが、もう限界です。どうせ死ぬしかないので、せめて遺骨代わりに持ち帰ってやりたいと思って」といった。私には次の言葉が出なかった。

  倒れている兵には聞こえているのかいないのか、剥がされる痛さを感じているのかいないのか、目頭に小さな涙の玉が光っていた。これも極限状態における戦友愛なのかもしれないが、剥がすも地獄、剥がされるも地獄。それを見た我々は唯、涙。

  この辺には畑はないということで、我々は少しでも先にと、そこを去ったが、爪を剥がされた兵隊は、その後どうされたのか、剥がした兵隊達はどうしたのか、勿論、知るよしもなかった。





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2012年02月23日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 16


7) 戦友愛とは

■ 8人組の中の二人との別れ

 自活を求め他ジャングル内の彷徨は、日がたつと共に苦しさが加わり、最初から栄養失調であった二人は、一緒に歩くのが苦痛になり、殺してくれ、手榴弾で自殺したいなど、死を望む言葉や、大隊本部に残った病人と一緒になりたいなどの希望をよく話していた。

  その都度、弱音をはいたらいかん、奥様や子供が待っているぞ。6人が助けてやるから何でも遠慮せずに頼めよ、と励ましながら、それでも心配だから夜になると手榴弾を取り上げ預かったり、蔓を帯革に通して結びつけ、逃げようと動けば直ぐに分かるように工夫もし、決して一人にならないように注意した。

  ある日、元気な6人が、今日は少し遠くまでエサを取りに行くから、二人はここで身体を休めながら飯盒炊飯の準備をして待っていてくれ、頼み出かけ、夕方戻ってみると二人はいなくなっていた。

  6人で近くを探したが手ごたえがない。私は二人の言動から、大隊本部との距離が遠くならないうちに、大隊本部に引き返したのだろう、追跡して連れ戻すべきか、希望を達成さえるべきか、何れが戦友愛か考え込んだが、6人協議の結果、残念だが別れることにし、以後、6人家族となった。 





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2012年02月22日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 15


6)  恐るべきN曹長の乾パン略奪事件

 それから2〜3日経った昼下がり、近くの山並みで食糧を探していた筈の上田伍長と偶然出会い、信じられないことを知らされた。それは、大隊長が敵を挟み撃ちにする時の、最後の食糧として残しておくといった乾パンを、こともあろうに補給中隊のN曹長が兵3〜4名を連れて襲撃し、他部隊の兵隊に盗まれないように監視していた主計中尉と主計兵長と上等兵の3名を突き殺し、乾パンを奪い逃げてしまった。大隊長は聞いてびっくり仰天、これは許せぬ一大事、見つけ次第、銃殺せよ、といっているそうだ。

 生死を共にした者同士が、骨肉相食む。そんな馬鹿なことが。倫理は飢えに勝てないのか。飢えは理性も食いつぶしてしまうのか。N曹長と3〜4名の兵隊は、今頃どんな気持ちで何をしているのだろうか? 飢えというのは人間を狂わせてしまう、本当に怖いものだ。「おい、上田伍長、メンバーとは一心同体だ。仲良く助け合って頑張ろう」。

  大隊が分散した直後のこの惨劇に、私も班員も大きなショックを受け、食糧のない、これからに大きな不安を抱いた。そこで夕暮、捕まえた蛙を煮て食べながら、7人に「今晩から8人の家族主義で行こう。如何に飢餓状態に陥っても理性を失わず、肉親の情をもって結束し、助け合っていくより外に道はない。「軍曹殿」「班長殿」「上等兵殿」は禁止だ。『君(くん)』呼びにしよう。家族の中には、それぞれ体力の差があるから、助け合わないと生きていけない。捕まえた食べ物も平等に分けて食べんと喧嘩になり、結局、家族はばらばらになって、つぶれてしまう」。

 「これから死んだ方がよいと思うようなことがあっても、神は決して我々を見捨てない。必ず助けてくれると信じて頑張ろう」。わが8人組の中で、最初から弱々しかった二人の目頭には涙が光っていた。

  私は人間が飢えに直面したとき、理性と食糧の何れを選ぶだろうか、自問自答をしながら、いやまず畑を見付けなければと、我々は更に奥地に入っていった。以後、上田伍長に会ったのを最後に、かつての飛行場大隊の戦友には誰一人にも出会うことなく彷徨を続けた。





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2012年02月21日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 14


(5)       
 大隊解散直後の悲劇/後藤軍曹の自決

  大隊が小集団に分散して2日目の夜明け、ジャングルの夜が明け染めた頃、わが班の野営地から500m位後方で、突然、手榴弾の炸裂音が轟いた。まさか敵がこんな近くまで来ているはずは無い。水上、吉良両上等兵に視察に行ってもらったところ、案の定、わが中隊の後藤軍曹が手榴弾を抱き自決し、目下、部下が土葬に付しているところだったとのこと。

  私より9歳年上の温厚な人であったが、体力が尽き果てこれから行動を共にすると、グループのものに負担をかけることになるといって自爆したのだとこと。家族のことも楽しく話してくれていた。彼のご家族の心中や彼自身の心中を察すると胸が痛くなり、泣けてしまった。ご冥福を祈るとともに、死んでなるかと、生きる決意を新たにした。 





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2012年02月20日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 13

 
4) 大隊長「大隊解散、涙の決別訓辞」

 6月20日頃、大隊長はついに意を決し、中隊毎に兵を集め、「諸君、残念ながら大隊には食糧が無くなり、大隊組織としての行動ができなくなったので,今日この地点で大隊を解散する。今から6〜7名程度の小集団を作り。それぞれが自活に道を探して生き延びてくれ。

 
大隊本部はこの第五集積地付近に置く。本部には一人一袋あての甲板を残しているが、これは東条大将が大部隊を引き連れて逆上陸してきたとき、我々は山を降りて敵を挟み撃ちする時の食糧だから、それまで本部が保管しておく。その機が来るまで生き延びてくれ。死んではならぬぞ。解散」。大隊長の眼には涙がにじんでいた。多分、心の中ではこれが今生の別れと思っていたのではないだろうか。

  中隊は集まったのを幸いに、その場で下士官を中心に5〜6人、多くても7〜8人の小集団を編成した。何を基準に小集団を作ったのか全く思い出せないが、私は7人に囲まれていた。見るとその内の二人は既に栄養失調で体が弱っており、心配だった。

  ジャングルに侵入の準備をしている時、別のグループに加わっていた大川衛生一等兵が「班長殿、お世話になりました。くれぐれもお元気で。これをもっていってください」と、マラリアの特効薬「キニーネ」と下痢止め用の「胃腸薬」を渡してくれた。実はこれが後日大変役に立ち、有り難かった。





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2012年02月19日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 12


 翌日だったが、マナリアで寝込んでいた福岡上等兵が私の手を握り、「班長殿、家内が迎えにきましたのでお先に帰ります」と、うわごとを言いながら息を引き取った。涙が出てしまった。

  山岳地に対する空爆は更に激しくなり、5月下旬頃だったと思うが、航空司令部から「山岳陣地を撤退し、山中、奥深く潜入し、自活対策を講じ、機の到来を待つべし」との命令が出され、大隊は以後、中隊毎に潜入する山並みを別にし、中隊毎に自活の対策を講ずることにした。

  第四航空司令部との連絡も、以後全く取れなくなったとのこと。いよいよこれからどうなるのか。大隊には食糧が底をつき、中隊に配るものがなくなり、各中隊の兵は、それぞれ山の中や谷川で採取できる草木や木の実、飛んでくる昆虫、這っている虫、泳いでいる小魚、オタマジャクシ、イモリ、ムカデ,バッタ。カタツムリ、蛙等々、なんでも口に入れ、飢えをしのぎ、命をつないだ。

  この頃、年配の一等兵が栄養失調とアミーバ赤痢で、異国の土になってしまった。奥様や子ども達はいたのかどうか、励ますことも出来なかった。





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2012年02月18日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 11


 山岳陣地といっても、近くの岩石を適当に積み重ねた粗末な陣地で、強力な火力を持つ敵の侵攻を防ぐには、切り込み隊を編成し、敵の野営地に切り込み、前進を阻止する以外よい作戦はなかった。

  早速、大隊長は警備中隊に切り込みを命じた。谷本警備中隊長は自らがその責任を果たすべく切り込み隊長となり、兵5〜6人を連れて敵の野営地に切り込んだ。敵を退却に追い込んだが、中隊長と兵二人が戦死してしまった。

  補給中隊は、僅かではあるが大隊が保存している食糧、弾薬、衛生医薬品等を次の転進地点まで搬送していたが、第四航空指令部から現陣地を死守せよと命令してきたとのこと。柴田補給中隊長は「いよいよ玉砕だ。遺書を書いて出せ」と隊員に命令。

  私は、この機に遺書を書いても、一体誰が届けるのか、バカなことと思いながら軍隊手帳の1枚を破り、「お母さん、孝行できずごめんなさい」と書いて出した。私の孝行を期待していた母の心中を察し、これが最期かと、ついに泣けた。

  中隊長は、玉砕を前にそれぞれの兵士がいかなる決意、いかなる感慨を持っているのかが、知りたかったのだなと想像した(集まった兵の遺書は果たしてどうなったのか、中隊本部功績係に聞けないままに終わった)。





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2012年02月17日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 10


3) 飛行場を放棄し山岳陣地で抵抗

 年が明け、米軍の地上部隊が南北から上陸し(北はスリガオ・カガヤン、南はコタバト・パダダ)、本格的に攻撃してくるというのに、わが大隊に対しては食糧も対空兵器も医薬品も全く補給がなくなり、一体これからどうなっていくのか不安が募りだした。

  第四航空司令部は何の補給もしないで、ただ飛行場を死守せよと命ずるばかり。4月下旬になって、飛行場を放棄し、山岳地に撤退して陣地を構築し、玉砕覚悟で徹底抗戦せよとの命令。

  大隊は地元住民の協力を得て、ワニの棲むプランゲ川にロープを張り、敵の撃ちまくる砲弾をくぐりながら、兵隊と物資を小船で運び、湿地帯をくぐり抜け山岳地に到達。早速陣地構築。

  一夜明けると、驚くことに昨日まで協力していた現地人が、折角運んでくれた食糧や医薬品等の一部を奪い逃走。大隊長、中隊長、小生とで追跡して射殺するか相談したが、結局,食糧はもともと現地人のものを調達したものであり、部隊の今後行き先も話していなかったので、米軍に知らせることもしないだろう、これまでの信頼関係を信じて見逃すことにした(後日投降した時、もし殺していたら現地軍人裁判で絞首刑に処せられていたかもしれなかった)。





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2012年02月16日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 9

 
  1時間半くらいたって、第二波の爆撃が始まった。第一回の爆弾であけられた大穴に飛び込み、機銃掃射の死角を求めてぐるぐる大穴の中を廻った。

  爆撃は三波にわたり、計120〜130機の攻撃を受け、木元軍曹以下10名の戦死者と20数名の負傷者を出し、滑走路及び兵舎は爆破焼失、燃料置場、ガソリンタンク車、修理車、運搬用トラック等も爆破炎上してしまった。

  戦場整理と戦死者の慰霊祭も終わり、わが修理班の人員を確認して、焼け残った兵舎の片隅で、一体、日本の陸軍・海軍の航空隊は何をしているのか。1機も空中戦に来なかったのはなぜか。また当大隊にも対空火器は全然無かったのか。口には出せないが、火器にこれだけの差があれば、到底勝つことは望めないと考え込んでしまった。

  以後米軍は、4〜5日おきに軽い爆撃を繰り返す程度に鳴りをひそめていた。わが方は兵舎が殆んど焼かれてしまったので。生活の拠点としての横穴防空壕堀と、滑走路の弾痕埋めに追われていた。





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2012年02月15日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 8


2) 9月9日、大空襲による大惨事

 忘れられることがないのは、田舎では秋の節句といわれている9月9日のことである。

  
朝食が終わった頃、「オーイ、友軍機がやってきたぞ」と喜びの大声をあげた。待望久しかったのでみなが兵舎から飛び出し、喜びの手を振って迎えた。

  飛行機はまるでカラスの群れが飛んでいる様だ。40〜50機が比較的軽い音を立てて飛んでくる。ところが急に高度を下げだし、急降下しだした。隣にいた少年航空兵の大沢伍長に、余り急降下だから飛行機には着陸できないのではないか、といったとたん。「あっ、敵機だ」「みんなタコ壷に入れ」大隊長が遠くから叫んだ。

  爆弾と焼夷弾が雨のように降ってきた。小生も思わずタコ壷に飛び込んだ。隣りに爆弾が大音響で炸裂し、土が小生の頭から降ってきた。首まで埋まったが、幸い頭は出ていた。隣に目をやると、首が無くなったように見える戦友の死体が横たわっていた。小生の鼻から血が流れ出ていた。神の護りか、軍隊は運隊といわれるが、3メートルの違いで小生は助かった。

  第一波の攻撃が終わったので、小生を埋まった穴から引き上げてくれた。見渡すと飛行場は穴だらけ、兵舎や自動車は半分くらいが焼夷弾によって燃えており、手のつけようもなかった。





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2012年02月14日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 7


1) バレンシャ飛行場での活動

  神のご加護か7月20日、当時としては珍しく無傷でマニラに上陸することができたのであるが、上級の第4航空指令は、第133飛行大隊をどこの島の、何と言う飛行場に配属すべきか、作戦本部は混乱していたようである。  

 8月3日、漸くミンダナオ島バレンシャ飛行場と決定(その間、約2週間、不衛生なサンザロ競馬場に野宿)。約400トンの小さい輸送船「大勇丸」に乗船、散在する小島を縫いながら敵の航空機、潜水艦の被害を受けないよう、約2週間もかけ8月15日、無事ミンダナオ島カガヤン・リザール公園に上陸。
  

 早速、積荷をトラックに積替え、夜間運行を承知でバレンシャ飛行場へ。幸い兵舎は既に飛行場設営隊の手により建設されており、雨露にぬれることもなく助かった。勿論、野戦の兵舎であるから、兵舎といっても竹とカヤを材料とした粗末なものであった。
  

 敵機は時折偵察機らしいものがやってきて来ていたが、空爆の気配はなかった。それよりも友軍機は一向に飛んでこず元気が出ない。大隊長の命により兵舎の周辺にタコ壷や、小山の中腹に防空壕を掘ったり、バナナ畑に自動車を隠蔽したり、修理工場を整備したり、待避所や衛兵所を作ったり、作業は次々あって、結構多忙な日々を送っていた。




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2012年02月13日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 6



3
 ミンダナオ島(バレンシャ)時代

   19444月、小松飛行場で新たに編成された第133飛行大隊に転属した私は、7月中旬、門司で輸送船「安芸丸」に他の部隊と一緒に積み込まれ、船内は身動きできない大混雑。

   そのときの輸送船団は14隻の輸送船に、護衛艦が7隻もついた大船団で、南方諸島に向かって出港。台湾まで平穏だったが、これから先のバシー海峡は、既に制空制海権とも米軍に握られ、死の海と呼ばれて、多くの輸送船が撃沈され、海の藻屑になった海峡である。

   幸い「安芸丸」は、彼方水平線に吹き上げる火柱や浮き沈みしている貨物や人影を見ながら、救助するすべもなく、7月下旬、奇跡的にマニラ港に入港した。埠頭には本隊が乗船していた輸送船が撃沈され、九死に一生を得て救助された兵が、次の所属部隊が決まらず右往左往しており、悲劇そのものだった。





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2012年02月12日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 5


 チャムスの軽重隊で、故あって乙幹の軍曹になり、内務班長を務めているときに反逆事件を起こしてしまった。ある日、師団の兵器部長の兵器検査を受けることになり、連隊長から中隊長を通じ、検査の前には徹夜で馬を手入れし、検査に遺漏なきようにと各内務班長に命令が出た。内務班は25〜30頭の馬を管理していたが、私は消灯になったら徹夜させないで兵隊を就寝させた。
 

  翌日の検査で兵器部長の講評は、私の班だけが良くなかった。愛馬家といわれる連隊長は中隊長に「下士官一人や二人をよう使わないのか。処罰せよ」と命じた。 

  中隊長と私の押問答が始まり、「何故、徹夜で馬の手入れをしなかったのか。命令違反だ」「馬より兵隊が大切だから、馬が綺麗でも兵隊が睡眠不足では馬を使えない」「軍隊は理屈ではない。命令どおりに動くところに皇軍の強さがある」「満州が戦場なら、私は理屈を言いません」  

 「本来なら上官の命令に従わなかったので軍法会議行きだが、今、日本は軍隊が足りない。特に南方では、お前どうなるか覚悟しておけ」と中隊長との口論は一時間に及んだ。そういうことがあって,南方飛行場部隊の第133飛行場大隊に連隊で、ただ一人だけ転属させられることになった。





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2012年02月11日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 4



 その日の演習は予定通り実施され、夕食が終わった頃、教官(少尉)が「谷口二等兵、中隊長がお呼びだ。早く行け」と。またやられるのかと、恐る恐るノックをして中隊長の前に不動の姿勢で立った。ところが予期に反して「己はぶってやれと命令したが、実は戦友愛に富んだ立派な初年兵だと、心の中で泣いていたのだ」と語ったのだ。

  私は、ああ助かったと胸をなぜおろした。中隊長も初年兵が教育助手からどんな教育を受けているのかは十分承知していた。そして「義をみてせざるは勇なきなりの精神は忘れるな。頑張れ」肩をたたいて誉めてくれた。

  この戦友愛が連隊長に達し、褒賞休暇3日間を受けるとともに、模範兵にされてしまった。ところがこの模範兵のレッテルは後々に、へまをやると「それでも模範兵か」と責められ、大きな重荷となってしまった。





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2012年02月10日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 3


2) 模範兵から反逆兵に

 姫路の連隊に入隊して1ヶ月あまりが過ぎたある朝、職業軍人でバリバリの中隊長が全員を営庭に集め、2800字に及ぶ、長い軍人に賜った勅諭を一行一行丁寧に解釈し、皇軍の皇軍たる所以と、兵の心掛けについて情熱を込めて教えていたときのこと。

  こともあろうに、同じ初年兵の河本二等兵が、睡眠不足から居眠りをし、持っていた三八銃を地上に落としてしまった。さあ大変。中隊長は烈火のごとく「軍人に賜った勅諭を謹んで解釈しているとき、天皇陛下から授かっている菊の紋章のついた三八銃を居眠りして落とすとは何事か。断じて許されない。中隊長以下全員が鉄拳制裁を加え、わが連隊精神をたたき込んでやる。よくみておけ」と、まず中隊長が往復ピンタを加え、中隊付将校、准尉、曹長、軍曹………と階級順にピンタを加えていった。

  河本の顔は腫れ鼻血が流れ、口から血が滲み、体が左右にゆれ,今にも倒れそうになってきた。私は思わず飛び出し、「河本、僕が代わってやる。僕をぶってください」と身代わりに立ってしまった。

  河本は声をしぼるように泣き出した。中隊長は「生意気な野郎だ。そいつをぶて」と、伍長、兵長、と次々に打たれた。こんな大勢から打たれるのは初めてで、目から星が散る実感を得たのは、この時が最初だった。鼻や口から血が流れだしたのをみて,「よーし、解散」と何も言わず去った。





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2012年02月09日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 2


2、 満州・チャムス駐屯時代
 

 1) 「上官の命令は朕の命令なり」

 私が日本軍隊の教育を受け、軍隊の特質をたたき込まれたのは姫路の軽重連隊。ここで有名な初年兵の第1期訓練を受けたが、その根幹となるのは階級制度だった。「上官の命令は朕の命令と心得よ」とし、絶対服従しなければならない。理不尽な命令だと思っても、不満を言ったり批判を言ったりすることは許されない。

  もし上官の命令に反論したり、文句をつけて服従しなかった場合は、容赦なく鉄拳制裁を受け、ことによっては営巣に入れられたり、下克上の罪として軍法会議に付され、重刑に処せられる。

  その根拠は天皇制と、軍人に賜った勅諭にあった。これを裏からみると日本軍隊の上官は、自己が負うべき責任の総てを天皇の命令だと責任転嫁し、その結果が日本を敗戦に導いたのだといえる。



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2012年02月08日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 1


私の戦場体験記

ミンダナオ島のジャングルで

 生き地獄さながらの彷徨5ヶ月
             
                         谷口 末廣 (
90歳)
               (不戦兵士・市民の会理事)

 1 私の軍歴

1942年1月〜1944年5月
 軽重10連隊に現役兵として入隊(軽重隊=糧食・被服・武器・弾薬などを輸送する軍隊)。旧満州国・チャムスに駐屯。

 1944年6月〜1945年10月
 第133飛行場大隊に転属。フィリッピン・ミンダナオ島バレンシャ飛行場に展開。同飛行場放棄、山岳ジャングルを敗走・彷徨。

 1945年10月〜1946年12月
 終戦を知り投降、捕虜としてレイテ島・ルソン島で労役に服す。1946年12月末、復員。軍隊の階級・軍曹。


  私は今から69年前(1942年、日中戦争の最中)に、現鳥取大学農学部を卒業し、農林水産省に就職したが、その年の12月8日に日本海軍は真珠湾の米海軍を奇襲攻撃し、日中戦争は太平洋戦争に拡大していった。

  私はその1ヶ月後の1942年(昭和17年)1月10日に陸軍軽重連隊に現役兵として徴集された。最初、姫路の軽重連隊で3ヶ月あまり訓練を受けた後。満州国のチャムスに駐屯していた10連隊に編入、そこで幹部候補生の前期訓練を受け、故あって乙幹(下士官)になり、1994年5月、情勢が悪化していく南方戦線支援のため、第133飛行大隊に転属を命じられ、ミンダナオ島ミンダナオ島バレンシャ飛行場に転進。

  1945年、生きるに糧なく、戦うに弾なく、自活を求めてジャングル内を敗走.飢えと病魔に苦しみ、野たれ死に直前で、1945年10月敗戦を知り投降。ミンダナオ・レイテ・ルソンの各島の捕虜収容所を転々と労務に服し、1946年12月末、丸5カ年間の兵役を終わり、名古屋港に上陸し、復員した。





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2012年02月07日

谷口末廣さんの戦争体験記の掲載について


農閑期のこの時期を利用して掲載

 私は戦争をくぐった世代です。直接戦場にいった方の話をできるだけ伝えておく必要を感じています。そんなことで過去シベリアに抑留されご苦労された桜堂泰さんという記録をネット上に掲載しました。庶民が体験したシベリア抑留記で、冷戦時代この人たちは「共産圏からの帰国者」という目で見られ、ご苦労が報われる雰囲気はなかった。

  戦争が激烈であっただけに、生き残った喜びは否定され「生きて恥をさらす」生き様を背負わされた。死んだものがよく戦い、生き残ったものは卑怯なことで生き残ったのではないかという疑念さえもたれる。死んだものには名誉の戦死で、その死を評価することになる。

 それが生き残ったものも「おめおめ生きて帰った」という自責の念に苦しむ。戦争とは相手国の国民も自国民も巻き込む凄惨な苦しみだ。しかし為政者は相手の非を責め戦争をした。その結果庶民は死を以って協力を迫られた。もう戦争はしてはいけないというのが私の考えである。

  そこで地域の憲法9条の会で戦争体験記を語った講師の谷口さんと知り合った。私は、戦争体験記のネット掲載を提案し、谷口さんもこの提案に乗り気であった。1年後にやっと掲載できる日を迎えた。もう90歳を越えた高齢であるが、原発事故が起こり、「自分はまだ頑張らなくて」と張り切っている。

  谷口さんに頂いた資料はミンダナオ島のジャングルで「生き地獄さながらの彷徨5ヶ月」と「戦友会と私」の2点です。戦争体験記は掲載しますが、戦友会のほうはミンダナオ島の記述と重なる部分もあるので掲載は割愛します。しかし皆さんにお伝えしたい部分もあるので、掲載は別の形を考えています。

 
 ※なお上記「桜堂泰さんのシベリア回想録」は、当ブログ右上からリンクできるようになっています。

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2012年02月06日

NHKスペシャル「紅河ハニ族棚田」


世界最大の棚田が雲南省の少数民族が

 人間の手が入った自然だが公園とは違った綺麗さがあった。今日本でも棚田が都会の自然と触れ合いを希望する人の間に関心が広がった。その後はあまりブームを聞かないので、あんな田んぼに入っておコメを作ってみたいと思っても、実際やってみるのと考えているのとでは随分違うと思う。

  こんな日本での棚田ブームが、雲南省の棚田まで探し出したのかもしれない。棚田は平地が少ないアジアでは余り珍しくはなかった。私が育った四国の高知県でも結構棚田を作っていた。けれど見る景色はいいが、経済効率が悪く、ここで農業をして収益を上げることは、かなり困難であろう。

  今のところこのハニ族の棚田では、自給自足の生活スタイルなので都会に出て働くものは少ない。それでこの棚田が維持されているわけで、もし物欲が旺盛になって都会に働きに行くようになれば、今までのような棚田の維持は難しくなるだろう。福建省にある世界遺産「客家」土楼でも若者はよそに働きに出ていた。

  早晩この棚田にもこんな風が吹いてくるものと思う。しかしこのハニ族棚田は世界遺産として登録ができた。南米ペルーでも棚田で塩田を作っている先住民がいた。ここで取れる塩はいい塩だが、ここもいい景色として世界遺産に登録されている。このペルーではこの世界遺産から上がる観光収入を公平に分配し仲よく暮らしていた。

  こんな綺麗な棚田を守るには大変な努力が要る。これをこれからもこの景観を保つにはそんな努力の積み重ねが必要だ。そんな苦労が分かるだけに「この棚田が綺麗だった」とかの話にはならなかった。できればこの人たちが今後もこの棚田を守って、豊かで楽しい生活をして願ってやまない。




posted by 農耕民 at 20:50| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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