2012年03月16日

冬の間やめていた一泊付き畑行き農作業再開


寝床は早速蛇やネズミ騒動から始まった

 畑の小屋は隣に竹やぶがあり、自然に恵まれているので色々な生き物が小屋に出入りする。私が泊まっていると蛇やネズミは一緒に寝たいとして近寄ってくることはない。しかし寒い冬場は彼らにも厳しいので私が長く泊まらないときはねぐらと使う。風除けに壁に貼り付けていた敷物の一部を、ネズミが自分の布団に改変していた。

  こんな動物の点検作業を慎重にする。布団の中に蛇が紛れ込んでいては嫌なのでそろりと動かしながら、生き物の動静を探る。そうすると蛇の姿を見てドキッとする。まだ寒いので動きが鈍いと思い、大型の剪定鋏を取り出して切ってやろうとした。ところが上手く切れず挟んだまま小屋の外に持ち出した。

  ところが蛇は死んでいた。布団をどかしたのに逃げないので不思議だと思っていたが、蛇の頭が何者かに食われて死んでいたのだ。この蛇の頭があった辺には大型のドブネズミや小さいネズミの糞があった。蛇は小振りな方なので襲ったのはネズミなのかなという想像が沸く。

  通常の場合、蛇がネズミを襲うという話は聞くが、逆の話は余り聞かない。ネズミが蛇を食べているなら胴体までその被害が及ぶと思うが、今回の場合ほんとに蛇の頭部に限られている。小ネズミが襲われ親ネズミが反撃をしたのかな、色々な想像を掻き立てる話だ。いずれにしても畑で泊まる話はこんなところから始まる。

  この日は北風の強い日だった。夜になっても風は吹き続けたが、それでも12月はじめより暖かい感じだった。朝起きたときには汲み置きの水には氷が張っていた。まだ日暮れが早く6時には仕事は終了し、12時間ほど湯たんぽの暖で布団の中で過ごせた。自宅では色々パソコンなどで忙しく、畑は健康面でいい生活ができる感じだ。

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頭のない蛇が小屋で



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2012年03月15日

昨年育てたニンジンに意外といい評判が


間引きもせず密植気味で育てた

 かなり自然に育て、寒さがきてもそのままにして大きくなったものから間引いて収穫した。肥料として入れたのはヌカだけである。このニンジンは夏ごろ種を蒔いたと思う。種を買って1年くらい経ったもので、芽が出るのだろうか、そんな危惧を抱いているなかで育てた。

  初冬のころから皆さんにお分けするくらい収穫したが、ニンジンというありふれた野菜だが、この野菜に対し、甘い、香りがいいという声が返ってきて驚く。今までニンジンは1回作ったことがあるだけで余り経験がない。どうしてこんなに評判が良かったのかよく分からない。

  1回も間引きをしない。種蒔きしたままの小振りなニンジンだ。こんなニンジンの作り方で良ければ楽なものだ。草も密植のニンジンの中ではそう繁茂しない。ヌカを2回ほど入れただけだ。ニンジンの草取りは発芽当初の初めだけで済んだ。こんなニンジンがどうして評判が良かったのか、これはヌカのせいだとしよう。

  趣味の野菜作りだが、沢山の種類を作るので作り方がよく分かるまでそれなりに時間が掛かる。今は新しい野菜の原産国が外国となることが多い。その地域の特性を考え、この野菜の育て方を知らなければならない。机の上での勉強はなかなか進まない。ついこんな放任の育て方にならざるをえない。

  ニンジンがこんな育て方いいなら、忙しい中でも種だけは沢山蒔くことにしたい。最近100円ショップをよく利用しているが、この店の種は安い。しかも種の量が少ない。これがいいのだ。少ないと思うものもあるが、多品種少量生産の趣味の農業では最適なのだ。そんなことからまた100円ショップでニンジンの種を買ったが、近く蒔くつもりである。





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2012年03月14日

少し暖かい日差しでいよいよ春の農作業の到来か


タマネギを眺めていると春の農作業を促される

 季節の移り変わりは争えないものだ。寒い日はそんなでもないが、暖かい日になるとそんなに成長したとは思えないタマネギが心なしか急に大きく感じる。確かに大きくはなっている。けれど寒い日は不思議とそんな感じがしないのだから面白いものだと思う。

  タマネギの話題が出たので、この話に移る。私の畑は冬の寒さが厳しい。昨年末にタマネギ苗をできるだけ深く、根が地中に達するよう注意深く植えた。ところが霜柱か、凍結の結果か分からないが、根が表に引き出され枯れたものが出ていた。それで予備の苗でもってこれを取り替える作業をしている。

  昨年のタマネギ記事からその様子を調べた。それによると温床で2月6日に種蒔きし、3月14日にポット移植を始めている。そして4月26日に畑に移植している。昨年の取り組みは、温床を使っても随分と遅い取り組みになる。今年は昨年11月の遅くに種蒔きしたものを、補植用の苗として使っている。

  もう寒さでタマネギ苗が枯れることはない。間もなく捕植も終わり、次は畑の耕しが主な仕事と昨日の記事に書いた。そのほかの用事は、果樹の選定が待っている。梨は終わり、梅は少しだけやった。栗も軽くやったがまだ満足するほどやっていない。キューイはまだ全然手をつけていない。

  こう考えてくると色々あるな。昨年ブラックベリーを盗まれたが、残った根から芽が出ていた。あれも何とか棚作りもしなければ。そうだ、昨年の栗苗、実生で育ったものが移植もせずそのままだ。ああ、いろいろあってあまり考えないことにしよう。所詮趣味の農業だ。できるだけでいい。楽しみながらやろう!




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2012年03月13日

今やらなければならない農作業はどんなことか


畑を掘り起こすことが緊急作業だ

 冬草は根が張る。上の部分が小さいからといって安心はできない。寒さが厳しいと根が良く張って成長を支えている感じがする。そんな草を放置していれば、草の上部より下の根が厄介となる。それを防ぐには一網打尽にやっつけられる掘り起しが一番である。

  この作業はもう遅いという感じである。もっと冬の初めに耕しておけば、土が乾燥して草が生えることはない。土か湿って固まっていれば草も生える。そんな意味で今は雨が多いので耕す時期としてはかなり遅い。しかしあんなに寒い時はそんなことを言われても、なかなか耕す段取りにならない。

  私は毎年こんなことが分かりながらも、こんなへまを繰り返している。色々やっている身としては忙しく致し方ないと心得ている。今草の生えている畑を耕しておけば、乾燥して土崩れすることを期待する。そうすれば4月の春野菜の植え付け時期には、どうにか植え付けができるようになるからだ。

  しかし今細かい根が生え、固まっている土を解しながら耕すことは時間が掛かる。そこで草の根が残っていようが、荒耕しだけでもしておこうと思う。日が照って少し土が乾燥したところでは草の勢いがなくなる。そうしたらまた手をかけて土を解そうと考えている。

  こんなへまをやらないのが隣の畑仲間だ。彼は地元ゆえ時間がたっぷりとある。私は自転車で2時間もかけて畑に行く身だ。それにブログも欠かさず書いている。時期が来れば自然交遊会の主催者になる。色々と忙しいので分かっているけれどやめられない。しかし隣りの畑仲間からはいいことを学ばせてもらっている。だがこれが実行できないだけだ。




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2012年03月12日

育ち遅れた大根に面白い味がする


何も収穫するものがない中で

 ジャガイモの植え付けを大根のあと地にする。昨年遅く蒔いた大根が幼いまま寒さをしのいで生き残っていた。大きくなったものはみんな凍傷にかかり腐った。幼いものは地上に出ていないのでどうにか凍らずに生き残った。この小さな大根を持ち帰ったら、パートナーが料理してくれた。

  余り食べるところがないという上、煮難いとしてパートナーにはあまり歓迎されない野菜であった。そうなのか、それでも自分が育て、無駄を承知で持ち帰ったのだから、じっくり味わって見た。昆布とか色々なだしを沢山入れた煮物として出てきた。これに面白い味を感じた。

  これが大根なのかという感じで、別の味がした。通常の大根の感じではない。小さいながら寒さに耐えた味がする。今自家農園では取れる野菜がない。それだから我慢するわけではないが、この大根を私は気に入っている。これから暖かくなる畑で、春から夏の野菜は新鮮ではあるが、うまみが少ない。

  来年からもっと寒風がまともに吹かない畑、私の場合は竹やぶに隣接した風が通りにくいところに大根を植えてみようということになる。大根は一度にできても仕方がない。寒さが来て凍っては一気になくなる。これからはどの場所で、どのような対策を打ちながら大根を育てるかということだろう。

  今まで畑をこんな目で見ていなかった。ただ空いている畑で育てる程度の意識だった。限られた自分の畑という条件の中でも、よく考えれば少しはましな作り方ができるのではないか。そう考えてくれば趣味の野菜作りも楽しくなる。今日は天気がはっきりしないので自宅だが、明日からは本格的に畑仕事に取り組む予定だ。

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くず大根のたべてみる


 

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2012年03月11日

今年のジャガイモの作付け状況


種キタアカリを10キロ購入した

 今年は寒く2月末には植えるつもりでいた。ところが3月10日になってもまだ土に植えていない。今種芋は適当に切って温床の横のところに埋め込んである。温床の中ではなく温床の建物の中と理解してください。ここも露地の畑より暖かいので、ここである程度発芽を待つことにしている。

  毎年いきなり露地に植えないで、暖かいところで発芽のためいい効果を利用するのだ。こんなやり方をして少し移植が遅れると問題が出る。遅くなれば根が絡むので無理に引き離せば根が傷む。こんなことにならない前に移植を終えることだ。こうするうちにジャガイモ畑の整地を終えるのが私のやり方である。

  こんなやり方だと、露地に植えたのと同じことが進行する。それまでにジャガイモを植える畑の準備が十分できる利点がある。今まで温床の準備が忙しかった。それでジャガイモ畑の整地を始めたばかりである。10キロの苗を植える畑を整地するのは何日も掛かる。無理すると後が大変だからゆっくりやることにしている。

  種芋はある程度切って使う。切り口には木灰を塗ると殺菌効果があるので、昔から農家はこれをして来ている。私は切り口が乾くまで2〜3日乾かしておく。それを今温床の比較的暖かいところで土に埋めて、整地が終わるのを待っている。この方法が冷たい露地よりも発芽という点で効率がいいと思う。

  私はジャガイモを沢山作ったからといって、全部自家消費ではない。付き合いが広く皆さんに分ける機会が多い。タマネギとジャガイモは沢山作ることにしている。北海道の美味しいタマネギもジャガイモも芽止めのため放射能が使われるという。こんなことのないジャガイモを差し上げたいと考えるからだ。




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2012年03月10日

作業小屋の近くの竹やぶにスズメバチの巣


作業小屋で休んでいた時に単独のスズメバチが

 隣で耕作している畑仲間が、竹やぶで見つけたというスズメバチの巣をとっていた。竹にぶら下がる形の巣であるが、畑の作業小屋で泊まって農作業をするものにとってはあまり気持ちのいいものではない。自然とはこんなスズメバチ、蛇など歓迎しないものが棲むのも致し方ないことかもしれない。

  スズメバチはやたらに人を襲うものではないという。不用意に巣に近づくとやられるということで、私の活動舞台である畑の作業小屋にも、単独のスズメバチが何回か入ってきた。何処かに巣がある気がしたがこんな近くにあるとは知らなかった。この巣が見つかったのはそばに栗の木がある。それが問題である。

  昨年知らずにこの栗の木に栗拾いに出かけている。それでもスズメバチの巣には気づかなかった。スズメバチの巣が倒れ掛かった竹などの陰に隠れていて、これに触って被害に合わなかったことを幸いと思う。それほどこのスズメバチの巣が近くにあったのだ。オオ!ビックリという感じである。
      
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竹薮にたスズメバチの巣







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2012年03月09日

温床がやっと完成し,種蒔きも終えた 2


温床内部には保温強化のため更にビニールの部屋を

 余り格好は良くないもののそれでも実質的な役割を果たすものを作った。そんな中で気を使うのがネズミの被害にあわないようにすることだ。野鼠が入り込んではサツマイモを食い荒らす。今のところこんなことにはなっていない。何年も続けてやっていれば、いろいろな問題に出くわす。

  昨年はアスパラをこの温床に蒔いた。総ての野菜苗が去ったあとこのアスパラを広い温床に広げるように移植した。これで1年物とは到底思えないくらい良く育った。このアスパラ苗を四国にいる兄弟達に分け、これで遠くにいる身内とも交流が深まった。アスパラ苗はそう簡単に育たないので喜ばれる。

  今年は少し温床の面積を広げたので、色々な苗を育てることができる。自家採取の黒トマト、フルーツトマト、それに100円ショップで買った種、それに1年越しになった昨年の種を園芸店で安く買った種などを蒔いた。色々な品種が欲しいが、沢山はひつようない。その点100ショップは有難い存在だ。

  自分でも苦笑するのだが、ナスは4種類も種を蒔いた。その上昨年買い置きしてある種が2種類出てきた。そんなにナスを作ってどうするの! という問いかけが自分自身に降りかかる。今それでもナスはミズナスが作りたい。昨年は土中にブルーシートを張って水を蓄えるような装置を作った。

  ナスも連作障害が起きるのではないか、そんな壁があるので思惑通りにはいかない。そんなことを楽しんでいるというのが落ち着く先だ。この温床の建物の中に更にビニールで覆う植え場所がある。毎回畑にいくと水やり、草取りが毎日の日課だ。葉物がすばやく発芽することを初めて知った。

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    温床小屋の内部を更    約20種の種を蒔く    
        にビニールで覆う





     
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2012年03月08日

温床がやっと完成し,種蒔きも終えた 1


今年は発酵材にヌカを投入できた

 谷口末廣氏の戦争体験を掲載中に、温床が完成し漸く種蒔きも終わった。今年は昨年より1ヶ月遅れの種蒔きになった。2回に分けて種蒔きしたのに、遅い種まきだったロケット(別名ルッコラ)が一番早く発芽している。このロケットはゴマの香りのするハーブで、昔から私はよく育てて楽しんでいる。

  今日の話題は温床を作った当時の写真があるので、こんな話題を扱う。今年はヌカが手に入っているので、これを溜め込んでおいた。そして温床を作る際にこれを発酵材としてばら撒いた。写真で見られるのはヌカの投与を写しのものである。このヌカの投与の前には枯葉が敷き込んである。ヌカはこの上に入れたものである。本当はこの枯葉とヌカを混ぜると発酵が進む。

  こんなヌカが近くにある状態では種蒔きはできない。植え土に当たるところは、昨年の温床の発酵枯葉が良く腐っているものを、新しい温床を作る際に掘り出して取り替える。植え土にするところの下の部分は昨年の温床の腐葉土を入れ込む。表面の植え土にするのには枯葉が残っていたりして少し目が粗い。

  一番上の種蒔きする土は、サギの糞がしみこんだ竹やぶから集めてきて、この昨年の腐葉土上に撒く、これで温床の苗床の完成である。温床は昨年より3割近く拡大したので、温床から出る昨年の腐葉土は不足気味であったが、それを竹やぶからとってきた植え土で間に合わせた。

  この温床に雨露をしのげるように拾い集めた資材で天井を作り、どうにか温床が完成した。南側はビニールで囲い。北側はコンパネ、ビニール、ヨシなどで風をできるだけ遮断することにした。東側の横は板囲いで、西側の横は下の半分は板で、上の半分はガラスとビニールで日当たりを良くするように透明にした。

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ヌカの投入状況    完成した温床の前面 ヨシで風を防ぐ裏面






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2012年03月07日

漸く農業記事をスタート


漸く温床が完成し種蒔きも終わった

しばらく「谷口末廣さんの戦争体験」を掲載していた。昨日は畑に出ていた今日また続けて畑に出るので、ゆっくり時間が取れない。したがって明日は雨降りの予定なので、詳しい記事は明日から始める。当面の話題は温床作りの話から始めます。よろしく。





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2012年03月06日

2012年2月分「草と闘う」リンク目次掲載

 
2月分リンク目次を掲載しました

2012
年2月分「草と闘う」リンク目次
  
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2012年03月05日

谷口末廣さんの戦争記録「生き地獄さながらの彷徨5ヶ月」


私の戦場体験

ミンダナオ島のジャングルで
 
   生き地獄さながらの彷徨5ヶ月
                
                             谷口 末廣 90歳)                 
                                   (不戦兵士・市民の会理事)
 

1 私の軍歴

1942年1月〜1944年5月 軽重10連隊に現役兵として入隊(軽重隊=糧食・被服・武器・弾薬などを輸送する軍隊)。旧満州国・チャムスに駐屯。

 1944年6月〜1945年10月 第133飛行場大隊に転属。フィリッピン・ミンダナオ島バレンシャ飛行場に展開。同飛行場放棄、山岳ジャングルを敗走・彷徨。

 1945年10月〜1946年12月 終戦を知り投降、捕虜としてレイテ島・ルソン島で労役に服す。1946年12月末、復員。軍隊の階級・軍曹。

  私は今から69年前(1942年、日中戦争の最中)に、現鳥取大学農学部を卒業し、農林水産省に就職したが、その年の12月に日本海軍は真珠湾の米海軍を奇襲攻撃し、日中戦争は太平洋戦争に拡大していった。

  私はその1ヶ月後の1942年(昭和17年)1月10日に陸軍軽重連隊に現役兵として徴集された。最初、姫路の軽重連隊で3ヶ月あまり訓練を受けた後。満州国のチャムスに駐屯していた10連隊に編入、そこで幹部候補生の前期訓練を受け、故あって乙幹(下士官)になり、1994年5月、情勢が悪化していく南方戦線支援のため、第133飛行大隊に転属を命じられ、ミンダナオ島ミンダナオ島バレンシャ飛行場に転進。

  1945年、生きるに糧なく、戦うに弾なく、自活を求めてジャングル内を敗走.飢えと病魔に苦しみ、野たれ死にの直前で、1945年10月敗戦を知り投降。ミンダナオ・レイテ・ルソンの各島の捕虜収容所を転々と労務に服し、1946年12月末、丸5カ年間の兵役を終わり、名古屋港に上陸し、復員した。


 2、 満州・チャムス駐屯時代

 
1) 「上官の命令は朕の命令なり」

 私が日本軍隊の教育を受け、軍隊の特質をたたき込まれたのは姫路の軽重連隊。ここで有名な初年兵の第1期訓練を受けたが、その根幹となるのは階級制度だった。「上官の命令は朕の命令と心得よ」とし、絶対服従しなければならない。理不尽な命令だと思っても、不満を言ったり批判を言ったりすることは許されない。

  もし上官の命令に反論したり、文句をつけて服従しなかった場合は、容赦なく鉄拳制裁を受け、ことによっては営巣に入れられたり、下克上の罪として軍法会議に付され、重刑に処せられる。

  その根拠は天皇制と、軍人に賜った勅諭にあった。これを裏からみると日本軍隊の上官は、自己が負うべき責任の総てを天皇の命令だと責任転嫁し、その結果が日本を敗戦に導いたのだといえる。


2) 模範兵から反逆兵に

 姫路の連隊に入隊して1ヶ月あまりが過ぎたある朝、職業軍人でバリバリの中隊長が全員を営庭に集め、2800字に及ぶ、長い軍人に賜った勅諭を一行一行丁寧に解釈し、皇軍の皇軍たる所以と、兵の心掛けについて情熱を込めて教えていたときのこと。

  こともあろうに、同じ初年兵の河本二等兵が、睡眠不足から居眠りをし、持っていた三八銃を地上に落としてしまった。さあ大変。中隊長は烈火のごとく「軍人に賜った勅諭を謹んで解釈しているとき、天皇陛下から授かっている菊の紋章のついた三八銃を居眠りして落とすとは何事か。断じて許されない。中隊長以下全員が鉄拳制裁を加え、わが連隊精神をたたき込んでやる。よくみておけ」と、まず中隊長が往復ピンタを加え、中隊付将校、准尉、曹長、軍曹………と階級順にピンタを加えていった。

  河本の顔は腫れ鼻血が流れ、口から血が滲み、体が左右にゆれ,今にも倒れそうになってきた。私は思わず飛び出し、「河本、僕が代わってやる。僕をぶってください」と身代わりに立ってしまった。

  河本は声をしぼるように泣き出した。中隊長は「生意気な野郎だ。そいつをぶて」と、伍長、兵長、と次々に打たれた。こんな大勢から打たれるのは初めてで、目から星が散る実感を得たのは、この時が最初だった。鼻や口から血が流れだしたのをみて,「よーし、解散」と何も言わず去った。

  その日の演習は予定通り実施され、夕食が終わった頃、教官(少尉)が「谷口二等兵、中隊長がお呼びだ。早く行け」と。またやられるのかと、恐る恐るノックをして中隊長の前に不動の姿勢で立った。ところが予期に反して「己はぶってやれと命令したが、実は戦友愛に富んだ立派な初年兵だと、心の中で泣いていたのだ」と語ったのだ。

  私は、ああ助かったと胸をなぜおろした。中隊長も初年兵が教育助手からどんな教育を受けているのかは十分承知していた。そして「義をみてせざるは勇なきなりの精神は忘れるな。頑張れ」肩をたたいて誉めてくれた。

  この戦友愛が連隊長に達し、褒賞休暇3日間を受けるとともに、模範兵にされてしまった。ところがこの模範兵のレッテルは後々に、へまをやると「それでも模範兵か」と責められ、大きな重荷となってしまった。

  チャムスの軽重隊で、故あって乙幹の軍曹になり、内務班長を務めているときに反逆事件を起こしてしまった。ある日、師団の兵器部長の兵器検査を受けることになり、連隊長から中隊長を通じ、検査の前には徹夜で馬を手入れし、検査に遺漏なきようにと各内務班長に命令が出た。内務班は25〜30頭の馬を管理していたが、私は消灯になったら徹夜させないで兵隊を就寝させた。

  翌日の検査で兵器部長の講評は、私の班だけが良くなかった。愛馬家といわれる連隊長は中隊長に「下士官一人や二人をよう使わないのか。処罰せよ」と命じた。
 

 中隊長と私の押問答が始まり、「何故、徹夜で馬の手入れをしなかったのか。命令違反だ」「馬より兵隊が大切だから、馬が綺麗でも兵隊が睡眠不足では馬を使えない」「軍隊は理屈ではない。命令どおりに動くところに皇軍の強さがある」「満州が戦場なら、私は理屈を言いません」。

 「本来なら上官の命令に従わなかったので軍法会議行きだが、今、日本は軍隊が足りない。特に南方では、お前どうなるか覚悟しておけ」と中隊長との口論は一時間に及んだ。そういうことがあって,南方飛行場部隊の第133飛行場大隊に連隊で、ただ一人だけ転属させられることになった。


3 ミンダナオ島(バレンシャ)時代

    19444月、小松飛行場で新たに編成された第133飛行大隊に転属した私は、7月中旬、門司で輸送船「安芸丸」に他の部隊と一緒に積み込まれ、船内は身動きできない大混雑。

   そのときの輸送船団は14隻の輸送船に、護衛艦が7隻もついた大船団で、南方諸島に向かって出港。台湾まで平穏だったが、これから先のバシー海峡は、既に制空制海権とも米軍に握られ、死の海と呼ばれて、多くの輸送船が撃沈され、海の藻屑になった海峡である。

   幸い「安芸丸」は、彼方水平線に吹き上げる火柱や浮き沈みしている貨物や人影を見ながら、救助するすべもなく、7月下旬、奇跡的にマニラ港に入港した。埠頭には本隊が乗船していた輸送船が撃沈され、九死に一生を得て救助された兵が、次の所属部隊が決まらず右往左往しており、悲劇そのものだった。


1) バレンシャ飛行場での活動

 神のご加護か7月20日、当時としては珍しく無傷でマニラに上陸することができたのであるが、上級の第4航空指令は、第133飛行大隊をどこの島の、何と言う飛行場に配属すべきか、作戦本部は混乱していたようである。

  8月3日、漸くミンダナオ島バレンシャ飛行場と決定(その間、約2週間、不衛生なサンザロ競馬場に野宿)。約400トンの小さい輸送船「大勇丸」に乗船、散在する小島を縫いながら敵の航空機、潜水艦の被害を受けないよう、約2週間も架け8月15日、無事ミンダナオ島カガヤン・リザール公園に上陸。

  早速、積荷をトラックに積替え、夜間運行を承知でバレンシャ飛行場へ。幸い兵舎は既に飛行場設営隊の手により建設されており、雨露にぬれることもなく助かった。勿論、野戦の兵舎であるから、兵舎といっても竹とカヤを材料とした粗末なものであった。

  敵機は時折偵察機らしいものがやってきて来ていたが、空爆の気配はなかった。それよりも友軍機は一向に飛んでこず元気が出ない。大隊長の命により兵舎の周辺にタコ壷や、小山の中腹に防空壕を掘ったり、バナナ畑に自動車を隠蔽したり、修理工場を整備したり、待避所や衛兵所を作ったり、作業は次々あって、結構多忙な日々を送っていた。


2) 9月9日、大空襲による大惨事

 忘れられることがないのは、田舎では秋の節句といわれている9月9日のことである。

  朝食が終わった頃、「オーイ、友軍機がやってきたぞ」と喜びの大声をあげた。待望久しかったのでみなが兵舎から飛び出し、喜びの手を振って迎えた。

  飛行機はまるでカラスの群れが飛んでいる様だ。40〜50機が比較的軽い音を立てて飛んでくる。ところが急に高度を下げだし、急降下しだした。隣にいた少年航空兵の大沢伍長に、余り急降下だから飛行機には着陸できないのではないか、といったとたん。「あっ、敵機だ」「皆んなタコ壷に入れ」大隊長が遠くから叫んだ。

  爆弾と焼夷弾が雨のように降ってきた。小生も思わずタコ壷に飛び込んだ。隣りに爆弾が大音響で炸裂し、土が小生の頭から降ってきた。首まで埋まったが、幸い頭は出ていた。隣に目をやると、首が無くなったように見える戦友の死体が横たわっていた。小生の鼻から血が流れ出ていた。神の護りか、軍隊は運隊といわれるが、3メートルの違いで小生は助かった。

  第一波の攻撃が終わったので、小生を埋まった穴から引き上げてくれた。見渡すと飛行場は穴だらけ、兵舎や自動車は半分くらいが焼夷弾によって燃えており、手のつけようもなかった。

  1時間半くらいたって、第二波の爆撃が始まった。第一回の爆弾であけられた大穴に飛び込み、機銃掃射の死角を求めてぐるぐる大穴の中を廻った。

  爆撃は三波にわたり、計120〜130機の攻撃を受け、肝と軍曹以下10名の戦死者と20数名の負傷者を出し、滑走路及び兵舎は爆破焼失、燃料置場、ガソリンタンク車、修理車、運搬用トラック等も爆破炎上してしまった。

  戦場整理と戦死者の慰霊祭も終わり、わが修理班の人員を確認して、焼け残った兵舎の片隅で、一体、日本の陸軍・海軍の航空隊は何をしているのか。1機も空中戦に来なかったのはなぜか。また当大隊にも対空火器は全然無かったのか。口には出せないが、火器にこれだけの差があれば、到底勝つことは望めないと考え込んでしまった。

  以後米軍は、4〜5日おきに軽い爆撃を繰り返す程度に鳴りをひそめていた。わが方は兵舎が殆んど焼かれてしまったので。生活の拠点としての横穴防空壕堀と、滑走路の弾痕埋めに追われていた。


3) 飛行場を放棄し山岳陣地で抵抗

 年が明け、米軍の地上部隊が南北から上陸し(北はスリガオ・カガヤン、南はコタバト・パダダ)、本格的に攻撃してくるというのに、わが大隊に対しては食糧も対空兵器も医薬品も全く補給がなくなり、一体これからどうなっていくのか不安が募りだした。

  第四航空司令部は何の補給もしないで、ただ飛行場を死守せよと命ずるばかり。4月下旬になって、飛行場を放棄し、山岳地に撤退して陣地を構築し、玉砕覚悟で徹底抗戦せよとの命令。

  大隊は地元住民の協力を得て、ワニの棲むプランゲ川にロープを張り、敵の撃ちまくる砲弾をくぐりながら、兵隊と物資を小船で運び、湿地帯をくぐり抜け山岳地に到達。早速陣地構築。

  一夜明けると、驚くことに昨日まで協力していた現地人が、折角運んでくれた食糧や医薬品等の一部を奪い逃走。大隊長、中隊長、小生とで追跡して射殺するか相談したが、結局,食糧はもともと現地人のものを調達したものであり、部隊の今後行き先も話していなかったので、米軍に知らせることもしないだろう、これまでの信頼関係を信じて見逃すことにした(後日投降した時、もし殺していたら現地軍人裁判で絞首刑にしょせられていたかもしれなかった)。

 山岳陣地といっても、近くの岩石を適当に積み重ねた粗末な陣地で、強力な火力を持つ敵の進攻を防ぐには、切り込み隊を編成し、敵の野営地に切り込み、前進を阻止する以外よい作戦はなかった。

  早速、大隊長は警備中隊に切り込みを命じた。谷本警備中隊長は自らがその責任を果たすべく切り込み隊長となり、兵5〜6人を連れて敵の野営地に切り込んだ。敵を退却に追い込んだが、中隊長と兵二人が戦死してしまった。

  補給中隊は、僅かではあるが大隊が保存している食糧、弾薬、衛生医薬品等を次の転進地点まで搬送していたが、第四航空指令部から現陣地を死守せよと命令してきたとのこと。柴田補給中隊長は「いよいよ玉砕だ。遺書を書いてだせ」と退院に命令。

  私は、この機に遺書を書いても、一体誰が届けるのか、バカなことと思いながら軍隊手帳の1枚を破り、「お母さん、孝行できずごめんなさい」と書いてだした。私の孝行を期待していた母の心中を察し、これが最期かと、ついに泣けた。

  中隊長は、玉砕を前にそれぞれの兵士がいかなる決意、いかなる感慨を持っているのかが、知りたかったのだなと想像した(集まった兵の遺書は果たしてどうなったのか、中隊本部功績係に聞けないままに終わった)。

  翌日だったが、マナリアで寝込んでいた福岡上等兵が私の手を握り、「班長殿、家内が迎えにきましたのでお先に帰ります」と、うわごとを言いながら息を引き取った。涙が出てしまった。

  山岳地に対する空爆は更に激しくなり、5月下旬頃だったと思うが、航空司令部から「山岳陣地を撤退し、山中、奥深く潜入し、自活対策を講じ、機の田浦イを待つべし」との命令が出され、大隊は以後、中隊毎に潜入する山並みを別にし、中隊毎に自活の対策を講ずることにした。

  第四航空司令部との連絡も、以後全く取れなくなったとのこと。いよいよこれからどうなるのか。大隊には食糧が底をつき、中隊に配るものがなくなり、各中隊の兵は、それぞれ山の中や谷川で採取できる草木や木の実、飛んでくる昆虫、這っている虫、泳いでいる小魚、オタマジャクシ、イモリ、ムカデ,バッタ。カタツムリ、蛙等々、なんでも口に入れ、飢えをしのぎ、命をつないだ。

  この頃、年配の一等兵が栄養失調とアミーバ赤痢で、異国の土になってしまった。奥様や子ども達は、いたのかどうか、励ますことも出来なかった。


4) 大隊長「大隊解散、涙の決別訓辞」

 6月20日頃、大隊長はついに意を決し、中隊毎に兵を集め、「諸君、残念ながら大隊には食糧が無くなり、大隊組織としての行動ができなくなったので,今日この地点で大隊を解散する。今から6〜7名程度の小集団を作り。それぞれが自活に道を探して生き延びてくれ。

 
大隊本部はこの第五集積地付近に置く。本部には一人一袋あての甲板を残しているが、これは東条大将が大部隊を引き連れて逆上陸してきたとき、我々は山を降りて敵を挟み撃ちする時の食糧だから、それまで本部が保管しておく。その機が来るまで生き延びてくれ。死んではならぬぞ。解散」。大隊長の眼には涙がにじんでいた。多分、心の中ではこれが今生ウの別れと思っていたのではないだろうか。

  中隊は集まったのを幸いに、その場で下士官を中心に5〜6人、多くても7〜8人の小集団を編成した。何を基準に小集団を作ったのか全く思い出せないが、私は7人に囲まれていた。見るとその内の二人は既に栄養失調で体が弱っており、心配だった。

  ジャングルに侵入の準備をしている時、別のグループに加わっていた大川衛生一等兵が「班長殿、お世話になりました。くれぐれもお元気で。これをもっていってください」と、マラリアの特効薬「キニーネ」と下痢止め用の「胃腸薬」を渡してくれた。実はこれが後日大変役に立ち、有り難かった。


(5)         大隊解散直後の悲劇/後藤軍曹の自決

  大隊が小集団に分散して2日目の夜明け、ジャングルの夜が明け染めたた頃、わが班の野営地から500m位後方で、突然、手榴弾の炸裂音が轟いた。まさか敵がこんな近くまで来ているはずは無い。水上、吉良両上等兵に視察に言ってもらったところ、案の定、わが中隊の後藤軍曹が手榴弾を抱き自決し、目下、部下が土葬にふしているところだったとのこと。

  私より9歳年上の温厚な人であったが、体力が尽き果てこれから行動を共にすると、グループのものに負担をかけることになるといって自爆したのだとここと。家族のことも楽しく話してくれていた。彼のご家族の心中や彼自身の心中を察すると胸が痛くなり、泣けてしまった。ご冥福を祈るとともに、死んでなるかと、生きる決意を新たにした。


6)  恐るべきN曹長の乾パン略奪事件

 それから2〜3日経った昼下がり、近くの山並みで食糧を探していた筈の上田伍長と偶然出会い、信じられないことを知らされた。それは、大隊長が敵を挟み撃ちにする時の、最後の食糧として残しておくといった乾パンを、こともあろうに補給中隊のN曹長が兵3〜4名を連れて襲撃し、他部隊の兵隊に盗まれないように監視していた主計中尉と主計兵長と上等兵の3名を突き殺し、乾パンを奪い逃げてしまった。大隊長は聞いてびっくり仰天、これは許せぬ一大事、見つけ次第、銃殺せよ、といっているそうだ。

 生死を共にした者同士が、骨肉相食む。そんな馬鹿なことが。倫理は飢えに勝てないのか。飢えは理性も食いつぶしてしまうのか。N曹長と3〜4名の兵隊は、今頃どんな気持ちで何をしているのだろうか? 飢えというのは人間を狂わせてしまう、本当に怖いものだ。「おい、上田伍長、メンバーとは一心同体だ。仲良く助け合って頑張ろう」。

  大隊が分散した直後のこの惨劇に、私も班員も大きなショックを受け、食糧のない、これからに大きな不安を抱いた。そこで夕暮、捕まえた蛙を煮て食べながら、7人に「今晩から8人の家族主義で行こう。如何に飢餓状態に陥っても理性を失わず、肉親の情をもって結束し、助け合っていくより外に道はない。「軍曹殿」「班長殿」「上等兵殿」は禁止だ。『君(くん)』呼びにしよう。家族の中には、それぞれ体力の差があるから、助け合わないと生きていけない。捕まえた食べ物も平等に分けて食べんと喧嘩になり、結局、家族はばらばらになって、つぶれてしまう」。

  「これから死んだ方がよいと思うようなことがあっても、神は決して我々を見捨てない。必ず助けてくれると信じて頑張ろう」。わが8人組の中で、最初から弱々しかった二人の目頭には涙が光っていた。

  私は人間が飢えに直面したとき、理性と食糧の何れを選ぶだろうか、自問自答をしながら、いやまず畑を見付けなければと、我々は更に奥地に入っていった。以後、上田伍長に会ったのを最後に、かつての飛行場大隊の戦友には誰一人にも出会うことなく彷徨を続けた。


7) 戦友愛とは

 ■ 8人組の中の二人との別れ

 自活を求め他ジャングル内の彷徨は、日がたつと共に苦しさが加わり、最初から栄養失調であった二人は、一緒に歩くのが苦痛になり、殺してくれ、手榴弾で自殺したいなど、死を望む言葉や、大隊本部に残った病人と一緒になりたいなどの希望を、よく話していた。

  その都度、弱音をはいたらいかん、奥様や子供が待っているぞ。6人が助けてやるから何でも遠慮せずに頼めよ、と励ましながら、それでも心配だから夜になると手榴弾を取り上げ預かったり、蔓を帯革に通して結びつけ、逃げようと動けば直ぐに分かるように工夫もし、決して一人にならないように注意した。

  ある日、元気な6人が、今日は少し遠くまでエサを取りに行くから、二人はここで身体を休めながら飯盒炊飯の準備をして待っていてくれ、頼み出かけ、夕方戻ってみると二人はいなくなっていた。

  6人で近くを探したが手ごたえがない。私は二人の言動から、大隊本部との距離が遠くならないうちに、大隊本部に引き返したのだろう、追跡して連れ戻すべきか、希望を達成さえるべきか、何れが戦友愛か考え込んだが、6人協議の結果、残念だが別れることにし、以後、6人家族となった。

  ■ 日本兵との恐るべき出会い

 大隊が分散して20日余り経過した頃であった。5〜6人の日本兵が輪になってしゃがんでいるのにであった。久しぶりに日本兵に出会った懐かしさと、畑の有無が聞けるかもしれないという期待感もあって、歩を早め近づいていった。

  輪の中を覗いてみると虫の息の兵が倒れており、その爪をはがそうとしていた。「まだ生きているではないか」とたしなめるように言うと、「ここまで連れてきたが、もう限界です。どうせ死ぬしかないので、せめて遺骨代わりに持ち帰ってやりたいと思って」といった。私には次の言葉が出なかった。

  倒れている兵には聞こえているのかいないのか、剥がされる痛さを感じているのかいないのか、目頭に小さな涙の玉が光っていた。これも極限状態における戦友愛なのかもしれないが、剥がすも地獄、剥がされるのも地獄。それを見た我々は唯、涙。

  この辺には畑はないということで、我々は少しでも先にと、底を去ったが、爪を剥がされた兵隊は、その後どうされたのか、剥がした兵隊達はどうしたのか、勿論、知るよしもなかった。


 
■ 安楽死について

  また日本兵や日本兵の死体に出会うことがなくなり、心細くなりだした。今日は谷川に下りて、川に棲む小魚や昆虫類などを採集しようということになり、斜面を這いながら降りていった。多分、ブランゲ川の上流だと思うが、谷川にしては大きかった。

  突然であったが川辺で3人の日本兵に会い、急に元気づいた。二人は男性だが、一人は女性だと想像した。何部隊かと尋ねると、マライバライの野戦病院の衛生兵だといった。

  私はマライバライにはよく食糧の現地調達に出かけたことがあり、その時、粗末な病院に歩けない傷病兵が沢山いた記憶があるので、皆と一緒に山中に逃げ込むことのできない病兵はどうしたのだね、と尋ねた。

  とても衛生兵や看護婦と一緒に山中に連れ込むことはできないので、残念ながら,これです。といって注射のしぐさをした。何たる悲劇だ、それも戦友愛なのだろうか。

  戦陣訓に示される「生きて虜囚の恥を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」。しかし若し家族の人に話せば、米軍に引き渡し捕虜として治療し、元気で復員させて欲しかったと、嘆くのではないだろうか。

  私は安楽死を選ぶか、白旗を掲げ捕虜となり、アメリカの病院で健康を回復させ、復員させる方を選ぶべきか、心の中で自問しながら、話を食糧確保と健康を保つ方法等に戻し、お互いに元気で頑張ろうといって別れた。


8) 鬼畜化した恐るべき日本兵との出会い

  3回目の出会いは、それから2週間位経った8月3、4日頃であった。我々は殆んどの者が杖を頼りにしか歩けないほど衰弱し、疲労していた。

  これまで2回畑に出会ったが、何れも先行の日本兵が収穫したあとで、トウモロコシの茎とか掘り起こされ干からびたサツマイモの蔓しか残っていなかった。しかしそれが我々には貴重であった。トカゲとか蛇のように逃げ足の早いもの捕獲できなくなり、蛙を捕まえると大喜びする状態であった。

  それどころか、置き去りにされ野たれ死にした日本兵の屍に出会うと、何か食べ残したものはないかと雑嚢や背負袋を掻き回すほど植えていた。思わぬ残し物に助けられたり、破れた靴を交換したり、死人に物を献ずるどころか、逆に屍から物を頂くという状態になっていた。

  私もこれまで屍の雑嚢の中の乾パン(カビが生え腐っていた)を戴いたり、首のまわりをうろついていたトカゲを戴いたりした。特に有難かったのは、ポケットの中から凸レンズを発見し戴いた。これは点火材に困っていたので大変助かった。

  誰だったか一人が、「おい、日本兵がいる」と言った。少し小高くなった尾根のようなところの木の根元で、3人が飯盆を抱えて何かうまそうに食べている。あの向こう側に畑があるのかなと、期待しながら力を振り絞り、這うように近づいていった。

  「貴様等は何部隊か」と先方から問いかけてきた。我々の部隊名をいい、この辺に畑があるのか、君達は何部隊か、本隊はどの辺にいるのか、など色々聞いてみたが、肝心の畑については、この辺にはないよ、もう少し先に行けばあるだろうと言った。

  我々はがっかりした。そして一人が、我々はもう2週間、食べ物らしきものは何も食べていない。この通り餓死寸前だが、君達は食糧を持っていてうらやましいよ、と少し分けてくれないかと言わんばかりに言った。

  すると豹兵団の歩兵だと言った3人は小声で何か話していたが、中央の兵が小声で「そうか、昨日から何も食っていないのか、少しだけ分けてやろう」と言った。我々は地獄で仏にあった気持ちになり、「有難う、恩に着るよ」と言って、いざりながら彼等に近づいた。

  肉の臭いに喉がなった。野草と肉の煮込みを中盆に分けてくれた。久しぶりに口のする肉、噛みしめるいとまもなく喉を通り越してしまった。何の肉か、大トカゲ、猿、それとも鼠かと聞いたが、彼らはうすら笑いを浮かべながら「何でもいいじゃないか」と敢えて教えようとはしなかった。我々は礼を言って歩き出した。3人の大きな笑い声が後ろを追っかけてきた。
  
  水が飲みたくなり、谷川に向かって降りて行くと、清らかな水が流れていた。近づいてみると兵隊3人が顔を川に突っ込んだまま死んでいた。末期の水とはこのことか。川上に眼をやるとビックリ仰天、何と飯盆炊飯の跡が歴然と残っており、その傍に足の肉が剥がれた日本兵の死体があり、辺りには血がどす黒くしみこんでいた。

  一人が声を震わしながら「こん畜生、奴等だな、よくもだまして、叩き延ばしてやる」といきり立った。皆んな這うように元の道の戻り、彼等の道に戻りだした。「おい、おい、待てよ、彼らは銃を持っていたし、眼光は鋭く、体力は我々より強い、逆に血祭りにされたら大変だ」「ここは見なかったことにして我慢しよう」。

  鬼畜化した3人と餓死寸前の6人、戦争とは一体何だろうか、次のエサ探しに痛む足を引きずりながら歩き続けた。


9) 漸く見つけた芋畑も追い出され

 狂鬼の兵に出会ってから10日ほどが過ぎたが、畑にも日本兵にも会わなかった。最も衰弱がひどい杉山君が、死んで早く楽になりだしたいと言い出した。「馬鹿いうな、奥さんや子供のことを思い出せ」と励ました。しかし皆んなからも、班長は神は絶対に我々一家を見殺しにはされない、もう1日、もう1日と引っ張ってきたが、もう限界だ。畑探しをしているうちに野垂れ死にしてしまうより、山を降りて米軍と戦い、戦死した方がましだ、と言い出した。私も迷った。よし、明日もう1日探しても見つからなかったら、戦死の道を選ぼうといって寝た。

  翌日、その日も遂に見つからないまま夕暮れを迎えた。突然、その日の先頭を歩いていた水上君が「あっ! やられている」と叫んだ。見ると、四肢をバラバラにされた日本兵。私はむごたらしい死体に目をそむけながら。これは土民かゲリラの仕業に違いない、とすればこの近くに畑があるはずだと連想した。

  夜、約束を破ってすまんが、明日もう1日だけ探してみようじゃないかと頼んだ。皆んなから、またですか。これで6回目、本当に明日だけですよ、と念を押された。

  眠れないまま夜が明けた。今日は昨日と反対側の斜面を探してみることにした。太陽がづ上近くになった頃、先頭を歩いていた前田君が、班長、畑のようだといって指さした。見るときの間隠れに青いものが見える。皆一斉に、畑だ! とうれしさの声をあげた。私は心の中で、やっぱり神は見捨てなかったと喜び、奇跡を感じた。

  皆んな、藤の大きなトゲに服を取られながら這うようにしえ畑を目指した。1時間半位で着いた。青々と繁ったサツマイモ畑で、半分ほど掘られていたが、半分は残っていた。皆んなは着くやいなや掘り出した。誰の眼にもうれし涙が浮かんでいた。掘った芋の土を服でぬぐい、生のまま、餓鬼のようにむしゃぶり食った。満足そうな笑顔と笑い声が溢れ出した。

  突然、「誰だ! この畑は我々のものだ。直ぐに出て行け、出て行かないと撃ち殺すぞ」と大きな怒声。思わず芋蔓の間に伏せた。頭を上げてみると、畑の向こう側に10名くらいの兵がおり、3人がこの方に近づいてきた。その内の一人は少尉だった。

  私は挙手の礼をし、「飛行場大隊の者で、ご覧の通り餓死寸前、2ヶ月半振りに漸くこの畑に出会い、これで助かったと喜んでいるところです。当分、この畑においてください」と哀願した。

  少尉は「君たちに食べられると部下の食料がそれだけ減る。君達はキミ達で自活できる畑を探せ」「それでは1週間お願いします」「馬鹿なことを言うな」の押問答。同じ日本軍ではないかと腹の虫は煮えくり返ったが、結局、少尉は明日の午後まで出て行けといって去った。

  私は皆んな煮「聞いての通りだ。軍隊は階級がものをいう。今晩と明日の午前中に腹の中を一杯にし、彼らに気付かれないように背負袋にできるだけ詰め込んで出よう」このようにして待望の芋畑を見つけた喜びは、一瞬にして泡のように吹き飛んでしまった。

  夜が明けると早速、少尉が出て行くように督促にやってきた。私達もその気で立ち上がろうとしたが、ふらふらして昨日より持ちからが出せない。見ると6人とも激しい下痢で、とても歩けそうにない。中でも私がひどかった。その原因は昨日、明日はここを出て行かなければならないということで、生芋を無理やりに胃の中に押し込んだからに違いない。今日は1日、葉や蔓と一緒に煮て食べれば、腹に調子も落ち着いてきて、力を出すこともできる。「どうか、もう1日、頼みます」と懇願した。

  下痢で軍袴の汚れ手いる姿を見て、少尉は「よし分かった。明朝は這ってでも出てもらうよ」といって去った。私は感謝した。ここ10日程、敵機は飛んでこない。堂々と火を焚いて、よく煮て食べ、下痢を治め、体力の回復に努めた。

  小集団に分散した時、大川衛生兵が特別に私にくれた下痢止めの胃腸薬を、この時こそと全員に分包し飲んだ。「大川、有り難う」。

  翌朝、少尉が再督促にやってきた。これ以上、お願いできないので、這ってでも出ますので、2〜3日分の芋を分けて下さいと頼んだ。少尉はよし分かったと言って部下の伍長に指示した。伍長は私に12本私に渡してくれた。内訳は一人1日1本、6人の2日分で12本ということである。少ないと思ったが、昨日、背負袋に芋を詰め、ジャングルの中に隠しておいたので我慢した。

  それぞれが2本の芋を雑嚢に入れている時、久しぶりに敵の偵察機が旋回しだした。発見されないようにジャングルの中に身を潜め様子を伺った.何時もエンジンを止めて旋回するのに、堂々としかも低空で旋回し、やがて芋畑めがけて紙片をばら撒き去った。拾ってみると、日本の降伏と投降勧告を書いた伝単(宣伝ビラ)であった。

  「日本兵の将兵に告ぐ。諸君は無益な戦争を止めよ。日本は8月15日、全面降伏し戦争は終わった。白旗を掲げて山を降りて濃い。必ず諸君を親や妻子の待つ日本に送り届ける。兵器はアメリカ兵の指示するブランゲ川の渡河点に提出しなさい」。

  私はビックリし息を呑んだ。本当かもしれない。しかし前田兵長を始め5人は、班長、これは敵さんの苦しまぎれの謀略で、だまされてはいけません。アメリカ軍が劣勢になり、日本軍が優勢になった証拠ですよ、といって逆に元気づいていた。

  私は、この芋畑を占有している少尉や兵隊の意見を聞く気にもならず、お礼を言って、未練の畑を出て行った(投降後、この芋畑についた碑が月14日、その翌日が15日、出て行った日が8月16日だったと分かった)。


10) 投降の決断

 芋畑に決別して5日目ごろに、例の飛行機による回目の伝単のばら撒きがあった。しかし爆撃はここ10日間、全く無かった。また日本兵や日本兵の屍にも出会わなくなり、日本軍は既に撤退し、我々だけが取り残されてしまったのではないかという。嫌な不安感が涌いてきだした。芋畑で分けてもらったり、隠し持ってきた芋も無くなった。自活できるような畑に出会うような可能性も殆んど見込めない。

  6人の中で一番衰弱している杉山一等兵が、は躍進で楽になりたいと言い出した。最も元気な支那事変体験者の前田兵長は、班長は「神は必ず我々を見殺しにはされない。もう1日、もう1日、探そうと引っ張ってきたが、もう限界ですよ。畑探ししているうちに野垂れ死にしてしまう。どうせ死ぬなら山を降りて、飛行機に突入し、敵の1機でも焼いて戦死した方がましですよ」と言い出した。 私には、少なくとも5人を無事にそれぞれの家族のもとに帰らせなければならないという責任と義務がある。アメリカは捕虜を殺すのか、殺さないのか。私以外の5人は必ず殺すと見ているが、私は殺さない方にかけたい。

  そうだ、兵隊5人は野垂れ死にするより戦死することの方を選んだのだから、明日から山を降りることにしよう。降りているうちに日本軍にも出会って、色々な情報も得られるだろう。自活の道を選び、結果的に野垂れ死にするよりも、まだ口には出せないが捕虜となって生きることを選ぶ決心をした。

  よし、明日から飛行場を目指して山を降りることにする。降りるにも食料がまず必要だから、10日程前に追い出された芋畑の様子を見ることにした。もぬけの殻で、芋は掘り尽くされており、人は誰もいなかった。

  しばらく降りたところで、元気の無いやせた二人野兵隊が、私も連れて行って下さいと、しがみついてきた。私は5人の手前上、戦争に行くので無理だと断ったが、私自身は投降が目的だったので、後日、あの二人が一緒に投降したのか、あのまま異国の土と化してしまったのか、65年過ぎた今でも気になっている。

  山をおりだしてから2週間くらい経ったある日、堂々と白旗を掲げて降りてきた7〜8人のグループに出会った。前田兵長が「生きて虜囚の辱を受けず」と言うことを忘れたのか、撃ち殺してやると銃を構えた。グループの長らしい伍長が「ちょっと待ってください。軍曹殿はソ連が宣戦布告し、満州に侵入してきたことをご存知ですか、日本は本当に負けたのです」と言って、詳しい情報を教えてくれた。

  私は1年3ヶ月位前まで、関東軍でソ連国境の警備に当たっていたので、ソ連が参戦すれば日本がどうなるか、想像がつく。日本の敗戦は間違いないと確信した。大体が分散した時、大隊長が示した大隊本部跡も尋ねたが、すでにもぬけの殻であった。

  あちこちの山並みから白旗を掲げて降りてくる小グループが増えてきた。しかし不思議にも代133飛行場大隊の戦友とは誰一人とも会わない。この様子だと既にわが部隊の戦友は殆どが投降し、我々だけが未投降で残されているに間違いないと思った。

  私は1日も早く説得して投降し、まず健康を元に戻さねばならないと考え、あの手この手の説得を続け、敗戦と投降の伝単を見てから、1ヶ月半後の9月末にブランゲ川を渡り、投降した。



4 終わりに
   形骸化した憲法9条を生き返そう

 私が老躯に鞭打ち戦場体験の一端を寄せたのは、憲法9条が年と共に形骸化を深め、今のうちに原点に戻さなければ、大変なことになってしまうと思うからである。

  ご承知の通り、九条(戦争しない・軍隊は持たない)は、日本の宝だけでなく、世界の未来の宝として尊重されています。それを戦争が何たるかを知らない人達によって、国土や国民の生命・財産を守るためとか、国際貢献のため等と称して、その都度、立法化し、実質的に九条違反を犯している。

  私達は65年前に、「二度とこの過ちは繰り返しません」と誓いましたそのことを忘れないで、今のうちに憲法9条に関連した諸法律(例えば自衛隊法、日米安保条約、自衛隊の海外協力のための諸法律)を解釈会見と誤魔化さないで、原点に引き戻さなければならない。それについて私達は努力をおしんではならない。

  なお、今回は捕虜収容所で痛感したことや、復員後の戦争観等についてご報告できなかったが、機会を得て、ご報告しなければと思っています。 


 


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2012年03月04日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 26


4 終わりに
   
      形骸化した憲法9条を生き返そう

 私が老躯に鞭打ち戦場体験の一端を寄せたのは、憲法9条が年と共に形骸化を深め、今のうちに原点に戻さなければ、大変なことになってしまうと思うからである。

  ご承知の通り、九条(戦争しない・軍隊は持たない)は、日本の宝だけでなく、世界の未来の宝として尊重されています。それを戦争が何たるかを知らない人達によって、国土や国民の生命・財産を守るためとか、国際貢献のため等と称して、その都度、立法化し、実質的に九条違反を犯している。

  私達は65年前に、「二度とこの過ちは繰り返しません」と誓いました。そのことを忘れないで、今のうちに憲法9条に関連した諸法律(例えば自衛隊法、日米安保条約、自衛隊の海外協力のための諸法律)を解釈改憲と誤魔化さないで、原点に引き戻さなければならない。それについて私達は努力を惜しんではならない。

  なお、今回は捕虜収容所で痛感したことや、復員後の戦争観等についてご報告できなかったが、機会を得て、ご報告しなければと思っています。 

※なおこの谷口さんの戦争体験は、本のように初めから順に読めるように纏めてあります。それは明日の2012年2月5日、このブログで一括して掲載してあります。







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2012年03月03日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 25


  しばらく降りたところで、元気の無いやせた二人の兵隊が、私も連れて行って下さいと、しがみついてきた。私は5人の手前上、戦争に行くので無理だと断ったが、私自身は投降が目的だったので、後日、あの二人が一緒に投降したのか、あのまま異国の土と化してしまったのか、65年過ぎた今でも気になっている。

  山をおりだしてから2週間くらい経ったある日、堂々と白旗を掲げて降りてきた7〜8人のグループに出会った。前田兵長が「生きて虜囚の辱を受けず」と言うことを忘れたのか、撃ち殺してやると銃を構えた。グループの長らしい伍長が「ちょっと待ってください。軍曹殿はソ連が宣戦布告し、満州に侵入してきたことをご存知ですか、日本は本当に負けたのです」と言って、詳しい情報を教えてくれた。

  私は1年3ヶ月位前まで、関東軍でソ連国境の警備に当たっていたので、ソ連が参戦すれば日本がどうなるか、想像がつく。日本の敗戦は間違いないと確信した。大隊が分散した時、大隊長が示した大隊本部跡も尋ねたが、すでにもぬけの殻であった。

  あちこちの山並みから白旗を掲げて降りてくる小グループが増えてきた。しかし不思議にも第133飛行場大隊の戦友とは誰一人とも会わない。この様子だと既にわが部隊の戦友は殆どが投降し、我々だけが未投降で残されているに間違いないと思った。

  私は1日も早く説得して投降し、まず健康を元に戻さねばならないと考え、あの手この手の説得を続け、敗戦と投降の伝単を見てから、1ヶ月半後の9月末にブランゲ川を渡り、投降した。 





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2012年03月02日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 24


10) 投降の決断

 芋畑に決別して5日目ごろに、例の飛行機による2回目の伝単のばら撒きがあった。しかし爆撃はここ10日間、全く無かった。また日本兵や日本兵の屍にも出会わなくなり、日本軍は既に撤退し、我々だけが取り残されてしまったのではないかという、いやな不安感が涌いてきだした。芋畑で分けてもらったり、隠し持ってきた芋も無くなった。自活できるような畑に出会うような可能性も殆んど見込めない。

  6人の中で一番衰弱している杉山一等兵が、早く死んで楽になりたいと言い出した。最も元気な支那事変体験者の前田兵長は、班長は「神は必ず我々を見殺しにはされない。もう1日、もう1日、探そうと引っ張ってきたが、もう限界ですよ。畑探ししているうちに野垂れ死にしてしまう。どうせ死ぬなら山を降りて、飛行機に突入し、敵の1機でも焼いて戦死した方がましですよ」と言い出した。

  私には、少なくとも5人を無事にそれぞれの家族のもとに帰らせなければならないという責任と義務がある。アメリカは捕虜を殺すのか、殺さないのか。私以外の5人は必ず殺すと見ているが、私は殺さない方にかけたい。

  そうだ、兵隊5人は野垂れ死にするより戦死することの方を選んだのだから、明日から山を降りることにしよう。降りているうちに日本軍にも出会って、色々な情報も得られるだろう。自活の道を選び、結果的に野垂れ死にするよりも、まだ口には出せないが捕虜となって生きることを選ぶ決心をした。

  よし、明日から飛行場を目指して山を降りることにする。降りるにも食料がまず必要だから、10日程前に追い出された芋畑の様子を見ることにした。もぬけの殻で、芋は掘り尽くされており、人は誰もいなかった。





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2012年03月01日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 23


 翌朝、少尉が再督促にやってきた。これ以上、お願いできないので、這ってでも出ますので、2〜3日分の芋を分けて下さいと頼んだ。少尉はよし分かったと言って部下の伍長に指示した。伍長は私に12本私に渡してくれた。内訳は一人1日1本、6人の2日分で12本ということである。少ないと思ったが、昨日、背負袋に芋を詰め、ジャングルの中に隠しておいたので我慢した。

  それぞれが2本の芋を雑嚢に入れている時、久しぶりに敵の偵察機が旋回しだした。発見されないようにジャングルの中に身を潜め様子を伺った.何時もエンジンを止めて旋回するのに、堂々としかも低空で旋回し、やがて芋畑めがけて紙片をばら撒き去った。拾ってみると、日本の降伏と投降勧告を書いた伝単(宣伝ビラ)であった。

  「日本兵の将兵に告ぐ。諸君は無益な戦争を止めよ。日本は8月15日、全面降伏し戦争は終わった。白旗を掲げて山を降りて濃い。必ず諸君を親や妻子の待つ日本に送り届ける。兵器はアメリカ兵の指示するブランゲ川の渡河点に提出しなさい」。

  私はビックリし息を呑んだ。本当かもしれない。しかし前田兵長を始め5人は、班長、これは敵さんの苦しまぎれの謀略で、だまされてはいけません。アメリカ軍が劣勢になり、日本軍が優勢になった証拠ですよ、といって逆に元気づいていた。

  私は、この芋畑を占有している少尉や兵隊の意見を聞く気にもならず、お礼を言って、未練の畑を出て行った(投降後、この芋畑についた日が8月14日、その翌日が15日、出て行った日が8月16日だったと分かった)。





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2012年02月29日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 22

 
  皆んな、藤の大きなトゲに服を取られながら這うようにして畑をめざした。1時間半位で着いた。青々と繁ったサツマイモ畑で、半分ほど掘られていたが、半分は残っていた。皆んなは着くやいなや掘り出した。誰の眼にもうれし涙が浮かんでいた。掘った芋の土を服でぬぐい、生のまま、餓鬼のようにむしゃぶり食った。満足そうな笑顔と笑い声が溢れ出した。

  突然、「誰だ! この畑は我々のものだ。直ぐに出て行け、出て行かないと撃ち殺すぞ」と大きな怒声。思わず芋蔓の間に伏せた。頭を上げてみると、畑の向こう側に10名くらいの兵がおり、3人がこの方に近づいてきた。その内の一人は少尉だった。

 私は挙手の礼をし、「飛行場大隊の者で、ご覧の通り餓死寸前、2ヶ月半振りに漸くこの畑に出会い、これで助かったと喜んでいるところです。当分、この畑においてください」と哀願した。

  少尉は「君たちに食べられると部下の食料がそれだけ減る。君達は君達で自活できる畑を探せ」「それでは1週間お願いします」「馬鹿なことを言うな」の押問答。同じ日本軍ではないかと腹の虫は煮えくり返ったが、結局、少尉は明日の正午まで出て行けといって去った。

  私は皆んなに「聞いての通りだ。軍隊は階級がものをいう。今晩と明日の午前中に腹の中を先ず一杯にし、彼らに気付かれないように背負袋にできるだけ詰め込んで出よう」。このようにして待望の芋畑を見つけた喜びは、一瞬にして泡のように吹き飛んでしまった。

  夜が明けると早速、少尉が出て行くように督促にやってきた。私達もその気で立ち上がろうとしたが、ふらふらして昨日よりも力が出せない。見ると6人とも激しい下痢で、とても歩けそうにない。中でも私がひどかった。その原因は昨日、明日はここを出て行かなければならないということで、生芋を無理やりに胃の中に押し込んだからに違いない。今日は1日、葉や蔓と一緒に煮て食べれば、腹に調子も落ち着いてきて、力を出すこともできる。「どうか、もう1日、頼みます」と懇願した。

  下痢で軍袴の汚れている姿を見て、少尉は「よし分かった。明朝は這ってでも出てもらうよ」といって去った。私は感謝した。ここ10日程、敵機は飛んでこない。堂々と火を焚いて、よく煮て食べ、下痢を治め、体力の回復に努めた。

  小集団に分散した時、大川衛生兵が特別に私にくれた下痢止めの胃腸薬を、この時こそと全員に分包し飲んだ。「大川、有り難う」。





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2012年02月28日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 21


9) 漸く見つけた芋畑も追い出され

 狂鬼の兵に出会ってから10日ほどが過ぎたが、畑にも日本兵にも会わなかった。最も衰弱がひどい杉山君が、死んで早く楽になりだしたいと言い出した。「馬鹿いうな、奥さんや子供のことを思い出せ」と励ました。しかし皆んなからも、班長は神は絶対に我々一家を見殺しにはされない、もう1日、もう1日と引っ張ってきたが、もう限界だ。畑探しをしているうちに野垂れ死にしてしまうより、山を降りて米軍と戦い、戦死した方がましだ、と言い出した。私も迷った。よし、明日もう1日探しても見つからなかったら、戦死の道を選ぼうといって寝た。

 翌日、その日も遂に見つからないまま夕暮れを迎えた。突然、その日の先頭を歩いていた水上君が「あっ! やられている」と叫んだ。見ると、四肢をバラバラにされた日本兵。私はむごたらしい死体に目をそむけながら。これは土民かゲリラの仕業に違いない、とすればこの近くに畑があるはずだと連想した。

  夜、約束を破ってすまんが、明日もう1日だけ探してみようじゃないかと頼んだ。皆んなから、またですか。これで6回目、本当に明日だけですよ、と念を押された。

  眠れないまま夜が明けた。今日は昨日と反対側の斜面を探してみることにした。太陽が頭上近くになった頃、先頭を歩いてくれていた前田君が、班長、畑のようだといって指さした。見るときの間隠れに青いものが見える。皆んな一斉に、畑だ! と嬉しさの声をあげた。私は心の中で、やっぱり神は見捨てなかったと喜び、奇跡を感じた。





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2012年02月27日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 20


 「貴様等は何部隊か」と先方から問いかけてきた。我々の部隊名をいい、この辺に畑があるのか、君達は何部隊か、本隊はどの辺にいるのか、など色々聞いてみたが、肝心の畑については、この辺にはないよ、もう少し先に行けばあるだろうと言った。

  我々はがっかりした。そして一人が、我々はもう2週間、食べ物らしきものは何も食べていない。この通り餓死寸前だが、君達は食糧を持っていてうらやましいよ、と少し分けてくれないかと言わんばかりに言った。

  すると豹兵団の歩兵だと言った3人は小声で何か話していたが、中央の兵が小声で「そうか、昨日から何も食っていないのか、少しだけ分けてやろう」と言った。我々は地獄で仏にあった気持ちになり、「有難う、恩に着るよ」と言って、いざりながら彼等に近づいた。

  肉の臭いに喉がなった。野草と肉の煮込みを中盆に分けてくれた。久しぶりに口のする肉、噛みしめるいとまもなく喉を通り越してしまった。何の肉か、大トカゲ、猿、それとも鼠かと聞いたが、彼らはうすら笑いを浮かべながら「何でもいいじゃないか」と敢えて教えようとはしなかった。我々は礼を言って歩き出した。3人の大きな笑い声が後ろを追っかけてきた。

  水が飲みたくなり、谷川に向かって降りて行くと、清らかな水が流れていた。近づいてみると兵隊3人が顔を川に突っ込んだまま死んでいた。末期の水とはこのことか。川上に眼をやるとビックリ仰天、何と飯盆炊飯の跡が歴然と残っており、その傍に足の肉が剥がれた日本兵の死体があり、辺りには血がどす黒くしみこんでいた。

  一人が声を震わしながら「こん畜生、奴等だな、よくもだまして、叩き延ばしてやる」といきり立った。皆んな這うように元の道の戻り、彼等の道に戻りだした。「おい、待てよ、彼らは銃を持っていたし、眼光は鋭く、体力は我々より強い、逆に血祭りにされたら大変だ」「ここは見なかったことにして我慢しよう」。

  狂鬼化した3人と餓死寸前の6人、戦争とは一体何だろうか、次のエサ探しに痛む足を引きずりながら歩き続けた。





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2012年02月26日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 19


8) 鬼畜化した恐るべき日本兵との出会い

 3回目の出会いは、それから2週間位経った8月3、4日頃であった。我々は殆んどの者が杖を頼りにしか歩けないほど衰弱し、疲労していた。

  これまで2回畑に出会ったが、何れも先行の日本兵が収穫したあとで、トウモロコシの茎とか掘り起こされ干からびたサツマイモの蔓しか残っていなかった。しかしそれが我々には貴重であった。トカゲとか蛇のように逃げ足の早いものは捕獲できなくなり、蛙を捕まえると大喜びする状態であった。

  それどころか、置き去りにされ野たれ死にした日本兵の屍に出会うと、何か食べ残したものはないかと雑嚢や背負袋を掻き回すほど飢えていた。思わぬ残し物に助けられたり、破れた靴を交換したり、死人に物を献ずるどころか、逆に屍から物を頂くという状態になっていた。

  私もこれまで屍の雑嚢の中の乾パン(カビが生え腐っていた)を戴いたり、首のまわりをうろついていたトカゲを戴いたりした。特に有難かったのは、ポケットの中から凸レンズを発見し戴いた。これは点火材に困っていたので大変助かった。

  誰だったか一人が、「おい、日本兵がいる」と言った。少し小高くなった尾根のようなところの木の根元で、3人が飯盆を抱えて何かうまそうに食べている。あの向こう側に畑があるのかなと、期待しながら力を振り絞り、這うように近づいていった。





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