2012年02月29日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 22

 
  皆んな、藤の大きなトゲに服を取られながら這うようにして畑をめざした。1時間半位で着いた。青々と繁ったサツマイモ畑で、半分ほど掘られていたが、半分は残っていた。皆んなは着くやいなや掘り出した。誰の眼にもうれし涙が浮かんでいた。掘った芋の土を服でぬぐい、生のまま、餓鬼のようにむしゃぶり食った。満足そうな笑顔と笑い声が溢れ出した。

  突然、「誰だ! この畑は我々のものだ。直ぐに出て行け、出て行かないと撃ち殺すぞ」と大きな怒声。思わず芋蔓の間に伏せた。頭を上げてみると、畑の向こう側に10名くらいの兵がおり、3人がこの方に近づいてきた。その内の一人は少尉だった。

 私は挙手の礼をし、「飛行場大隊の者で、ご覧の通り餓死寸前、2ヶ月半振りに漸くこの畑に出会い、これで助かったと喜んでいるところです。当分、この畑においてください」と哀願した。

  少尉は「君たちに食べられると部下の食料がそれだけ減る。君達は君達で自活できる畑を探せ」「それでは1週間お願いします」「馬鹿なことを言うな」の押問答。同じ日本軍ではないかと腹の虫は煮えくり返ったが、結局、少尉は明日の正午まで出て行けといって去った。

  私は皆んなに「聞いての通りだ。軍隊は階級がものをいう。今晩と明日の午前中に腹の中を先ず一杯にし、彼らに気付かれないように背負袋にできるだけ詰め込んで出よう」。このようにして待望の芋畑を見つけた喜びは、一瞬にして泡のように吹き飛んでしまった。

  夜が明けると早速、少尉が出て行くように督促にやってきた。私達もその気で立ち上がろうとしたが、ふらふらして昨日よりも力が出せない。見ると6人とも激しい下痢で、とても歩けそうにない。中でも私がひどかった。その原因は昨日、明日はここを出て行かなければならないということで、生芋を無理やりに胃の中に押し込んだからに違いない。今日は1日、葉や蔓と一緒に煮て食べれば、腹に調子も落ち着いてきて、力を出すこともできる。「どうか、もう1日、頼みます」と懇願した。

  下痢で軍袴の汚れている姿を見て、少尉は「よし分かった。明朝は這ってでも出てもらうよ」といって去った。私は感謝した。ここ10日程、敵機は飛んでこない。堂々と火を焚いて、よく煮て食べ、下痢を治め、体力の回復に努めた。

  小集団に分散した時、大川衛生兵が特別に私にくれた下痢止めの胃腸薬を、この時こそと全員に分包し飲んだ。「大川、有り難う」。





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2012年02月28日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 21


9) 漸く見つけた芋畑も追い出され

 狂鬼の兵に出会ってから10日ほどが過ぎたが、畑にも日本兵にも会わなかった。最も衰弱がひどい杉山君が、死んで早く楽になりだしたいと言い出した。「馬鹿いうな、奥さんや子供のことを思い出せ」と励ました。しかし皆んなからも、班長は神は絶対に我々一家を見殺しにはされない、もう1日、もう1日と引っ張ってきたが、もう限界だ。畑探しをしているうちに野垂れ死にしてしまうより、山を降りて米軍と戦い、戦死した方がましだ、と言い出した。私も迷った。よし、明日もう1日探しても見つからなかったら、戦死の道を選ぼうといって寝た。

 翌日、その日も遂に見つからないまま夕暮れを迎えた。突然、その日の先頭を歩いていた水上君が「あっ! やられている」と叫んだ。見ると、四肢をバラバラにされた日本兵。私はむごたらしい死体に目をそむけながら。これは土民かゲリラの仕業に違いない、とすればこの近くに畑があるはずだと連想した。

  夜、約束を破ってすまんが、明日もう1日だけ探してみようじゃないかと頼んだ。皆んなから、またですか。これで6回目、本当に明日だけですよ、と念を押された。

  眠れないまま夜が明けた。今日は昨日と反対側の斜面を探してみることにした。太陽が頭上近くになった頃、先頭を歩いてくれていた前田君が、班長、畑のようだといって指さした。見るときの間隠れに青いものが見える。皆んな一斉に、畑だ! と嬉しさの声をあげた。私は心の中で、やっぱり神は見捨てなかったと喜び、奇跡を感じた。





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2012年02月27日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 20


 「貴様等は何部隊か」と先方から問いかけてきた。我々の部隊名をいい、この辺に畑があるのか、君達は何部隊か、本隊はどの辺にいるのか、など色々聞いてみたが、肝心の畑については、この辺にはないよ、もう少し先に行けばあるだろうと言った。

  我々はがっかりした。そして一人が、我々はもう2週間、食べ物らしきものは何も食べていない。この通り餓死寸前だが、君達は食糧を持っていてうらやましいよ、と少し分けてくれないかと言わんばかりに言った。

  すると豹兵団の歩兵だと言った3人は小声で何か話していたが、中央の兵が小声で「そうか、昨日から何も食っていないのか、少しだけ分けてやろう」と言った。我々は地獄で仏にあった気持ちになり、「有難う、恩に着るよ」と言って、いざりながら彼等に近づいた。

  肉の臭いに喉がなった。野草と肉の煮込みを中盆に分けてくれた。久しぶりに口のする肉、噛みしめるいとまもなく喉を通り越してしまった。何の肉か、大トカゲ、猿、それとも鼠かと聞いたが、彼らはうすら笑いを浮かべながら「何でもいいじゃないか」と敢えて教えようとはしなかった。我々は礼を言って歩き出した。3人の大きな笑い声が後ろを追っかけてきた。

  水が飲みたくなり、谷川に向かって降りて行くと、清らかな水が流れていた。近づいてみると兵隊3人が顔を川に突っ込んだまま死んでいた。末期の水とはこのことか。川上に眼をやるとビックリ仰天、何と飯盆炊飯の跡が歴然と残っており、その傍に足の肉が剥がれた日本兵の死体があり、辺りには血がどす黒くしみこんでいた。

  一人が声を震わしながら「こん畜生、奴等だな、よくもだまして、叩き延ばしてやる」といきり立った。皆んな這うように元の道の戻り、彼等の道に戻りだした。「おい、待てよ、彼らは銃を持っていたし、眼光は鋭く、体力は我々より強い、逆に血祭りにされたら大変だ」「ここは見なかったことにして我慢しよう」。

  狂鬼化した3人と餓死寸前の6人、戦争とは一体何だろうか、次のエサ探しに痛む足を引きずりながら歩き続けた。





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2012年02月26日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 19


8) 鬼畜化した恐るべき日本兵との出会い

 3回目の出会いは、それから2週間位経った8月3、4日頃であった。我々は殆んどの者が杖を頼りにしか歩けないほど衰弱し、疲労していた。

  これまで2回畑に出会ったが、何れも先行の日本兵が収穫したあとで、トウモロコシの茎とか掘り起こされ干からびたサツマイモの蔓しか残っていなかった。しかしそれが我々には貴重であった。トカゲとか蛇のように逃げ足の早いものは捕獲できなくなり、蛙を捕まえると大喜びする状態であった。

  それどころか、置き去りにされ野たれ死にした日本兵の屍に出会うと、何か食べ残したものはないかと雑嚢や背負袋を掻き回すほど飢えていた。思わぬ残し物に助けられたり、破れた靴を交換したり、死人に物を献ずるどころか、逆に屍から物を頂くという状態になっていた。

  私もこれまで屍の雑嚢の中の乾パン(カビが生え腐っていた)を戴いたり、首のまわりをうろついていたトカゲを戴いたりした。特に有難かったのは、ポケットの中から凸レンズを発見し戴いた。これは点火材に困っていたので大変助かった。

  誰だったか一人が、「おい、日本兵がいる」と言った。少し小高くなった尾根のようなところの木の根元で、3人が飯盆を抱えて何かうまそうに食べている。あの向こう側に畑があるのかなと、期待しながら力を振り絞り、這うように近づいていった。





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2012年02月25日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 18


■ 安楽死について

  また日本兵や日本兵の死体に出会うことがなくなり、心細くなりだした。今日は谷川に下りて、川に棲む小魚や昆虫類などを採集しようということになり、斜面を這いながら降りていった。多分、ブランゲ川の上流だと思うが、谷川にしては大きかった。

   突然であったが川辺で3人の日本兵に会い、急に元気づいた。二人は男性だが、一人は女性だと想像した。何部隊かと尋ねると、マライバライの野戦病院の衛生兵だといった。

   私はマライバライにはよく食糧の現地調達に出かけたことがあり、その時、粗末な病院に歩けない傷病兵が沢山いた記憶があるので、皆と一緒に山中に逃げ込むことのできない病兵はどうしたのだね、と尋ねた。

   とても衛生兵や看護婦と一緒に山中に連れ込むことはできないので、残念ながら,これです。といって注射のしぐさをした。何たる悲劇だ、それも戦友愛なのだろうか。

   戦陣訓に示される「生きて虜囚の恥を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」。しかし若し家族の人に話せば、米軍に引き渡し捕虜として治療し、元気で復員させて欲しかったと、嘆くのではないだろうか。

   私は安楽死を選ぶか、白旗を掲げ捕虜となり、アメリカの病院で健康を回復させ、復員させる方を選ぶべきか、心の中で自問しながら、話を食糧確保と健康を保つ方法等に戻し、お互いに元気で頑張ろうといって別れた。 



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2012年02月24日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 17


■ 日本兵との恐るべき出会い

 大隊が分散して20日余り経過した頃であった。5〜6人の日本兵が輪になってしゃがんでいるのに出会った。久しぶりに日本兵に出会った懐かしさと、畑の有無が聞けるかもしれないという期待感もあって、歩を早め近づいていった。

  輪の中を覗いてみると虫の息の兵が倒れており、その爪をはがそうとしていた。「まだ生きているではないか」とたしなめるように言うと、「ここまで連れてきたが、もう限界です。どうせ死ぬしかないので、せめて遺骨代わりに持ち帰ってやりたいと思って」といった。私には次の言葉が出なかった。

  倒れている兵には聞こえているのかいないのか、剥がされる痛さを感じているのかいないのか、目頭に小さな涙の玉が光っていた。これも極限状態における戦友愛なのかもしれないが、剥がすも地獄、剥がされるも地獄。それを見た我々は唯、涙。

  この辺には畑はないということで、我々は少しでも先にと、そこを去ったが、爪を剥がされた兵隊は、その後どうされたのか、剥がした兵隊達はどうしたのか、勿論、知るよしもなかった。





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2012年02月23日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 16


7) 戦友愛とは

■ 8人組の中の二人との別れ

 自活を求め他ジャングル内の彷徨は、日がたつと共に苦しさが加わり、最初から栄養失調であった二人は、一緒に歩くのが苦痛になり、殺してくれ、手榴弾で自殺したいなど、死を望む言葉や、大隊本部に残った病人と一緒になりたいなどの希望をよく話していた。

  その都度、弱音をはいたらいかん、奥様や子供が待っているぞ。6人が助けてやるから何でも遠慮せずに頼めよ、と励ましながら、それでも心配だから夜になると手榴弾を取り上げ預かったり、蔓を帯革に通して結びつけ、逃げようと動けば直ぐに分かるように工夫もし、決して一人にならないように注意した。

  ある日、元気な6人が、今日は少し遠くまでエサを取りに行くから、二人はここで身体を休めながら飯盒炊飯の準備をして待っていてくれ、頼み出かけ、夕方戻ってみると二人はいなくなっていた。

  6人で近くを探したが手ごたえがない。私は二人の言動から、大隊本部との距離が遠くならないうちに、大隊本部に引き返したのだろう、追跡して連れ戻すべきか、希望を達成さえるべきか、何れが戦友愛か考え込んだが、6人協議の結果、残念だが別れることにし、以後、6人家族となった。 





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2012年02月22日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 15


6)  恐るべきN曹長の乾パン略奪事件

 それから2〜3日経った昼下がり、近くの山並みで食糧を探していた筈の上田伍長と偶然出会い、信じられないことを知らされた。それは、大隊長が敵を挟み撃ちにする時の、最後の食糧として残しておくといった乾パンを、こともあろうに補給中隊のN曹長が兵3〜4名を連れて襲撃し、他部隊の兵隊に盗まれないように監視していた主計中尉と主計兵長と上等兵の3名を突き殺し、乾パンを奪い逃げてしまった。大隊長は聞いてびっくり仰天、これは許せぬ一大事、見つけ次第、銃殺せよ、といっているそうだ。

 生死を共にした者同士が、骨肉相食む。そんな馬鹿なことが。倫理は飢えに勝てないのか。飢えは理性も食いつぶしてしまうのか。N曹長と3〜4名の兵隊は、今頃どんな気持ちで何をしているのだろうか? 飢えというのは人間を狂わせてしまう、本当に怖いものだ。「おい、上田伍長、メンバーとは一心同体だ。仲良く助け合って頑張ろう」。

  大隊が分散した直後のこの惨劇に、私も班員も大きなショックを受け、食糧のない、これからに大きな不安を抱いた。そこで夕暮、捕まえた蛙を煮て食べながら、7人に「今晩から8人の家族主義で行こう。如何に飢餓状態に陥っても理性を失わず、肉親の情をもって結束し、助け合っていくより外に道はない。「軍曹殿」「班長殿」「上等兵殿」は禁止だ。『君(くん)』呼びにしよう。家族の中には、それぞれ体力の差があるから、助け合わないと生きていけない。捕まえた食べ物も平等に分けて食べんと喧嘩になり、結局、家族はばらばらになって、つぶれてしまう」。

 「これから死んだ方がよいと思うようなことがあっても、神は決して我々を見捨てない。必ず助けてくれると信じて頑張ろう」。わが8人組の中で、最初から弱々しかった二人の目頭には涙が光っていた。

  私は人間が飢えに直面したとき、理性と食糧の何れを選ぶだろうか、自問自答をしながら、いやまず畑を見付けなければと、我々は更に奥地に入っていった。以後、上田伍長に会ったのを最後に、かつての飛行場大隊の戦友には誰一人にも出会うことなく彷徨を続けた。





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2012年02月21日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 14


(5)       
 大隊解散直後の悲劇/後藤軍曹の自決

  大隊が小集団に分散して2日目の夜明け、ジャングルの夜が明け染めた頃、わが班の野営地から500m位後方で、突然、手榴弾の炸裂音が轟いた。まさか敵がこんな近くまで来ているはずは無い。水上、吉良両上等兵に視察に行ってもらったところ、案の定、わが中隊の後藤軍曹が手榴弾を抱き自決し、目下、部下が土葬に付しているところだったとのこと。

  私より9歳年上の温厚な人であったが、体力が尽き果てこれから行動を共にすると、グループのものに負担をかけることになるといって自爆したのだとこと。家族のことも楽しく話してくれていた。彼のご家族の心中や彼自身の心中を察すると胸が痛くなり、泣けてしまった。ご冥福を祈るとともに、死んでなるかと、生きる決意を新たにした。 





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2012年02月20日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 13

 
4) 大隊長「大隊解散、涙の決別訓辞」

 6月20日頃、大隊長はついに意を決し、中隊毎に兵を集め、「諸君、残念ながら大隊には食糧が無くなり、大隊組織としての行動ができなくなったので,今日この地点で大隊を解散する。今から6〜7名程度の小集団を作り。それぞれが自活に道を探して生き延びてくれ。

 
大隊本部はこの第五集積地付近に置く。本部には一人一袋あての甲板を残しているが、これは東条大将が大部隊を引き連れて逆上陸してきたとき、我々は山を降りて敵を挟み撃ちする時の食糧だから、それまで本部が保管しておく。その機が来るまで生き延びてくれ。死んではならぬぞ。解散」。大隊長の眼には涙がにじんでいた。多分、心の中ではこれが今生の別れと思っていたのではないだろうか。

  中隊は集まったのを幸いに、その場で下士官を中心に5〜6人、多くても7〜8人の小集団を編成した。何を基準に小集団を作ったのか全く思い出せないが、私は7人に囲まれていた。見るとその内の二人は既に栄養失調で体が弱っており、心配だった。

  ジャングルに侵入の準備をしている時、別のグループに加わっていた大川衛生一等兵が「班長殿、お世話になりました。くれぐれもお元気で。これをもっていってください」と、マラリアの特効薬「キニーネ」と下痢止め用の「胃腸薬」を渡してくれた。実はこれが後日大変役に立ち、有り難かった。





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2012年02月19日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 12


 翌日だったが、マナリアで寝込んでいた福岡上等兵が私の手を握り、「班長殿、家内が迎えにきましたのでお先に帰ります」と、うわごとを言いながら息を引き取った。涙が出てしまった。

  山岳地に対する空爆は更に激しくなり、5月下旬頃だったと思うが、航空司令部から「山岳陣地を撤退し、山中、奥深く潜入し、自活対策を講じ、機の到来を待つべし」との命令が出され、大隊は以後、中隊毎に潜入する山並みを別にし、中隊毎に自活の対策を講ずることにした。

  第四航空司令部との連絡も、以後全く取れなくなったとのこと。いよいよこれからどうなるのか。大隊には食糧が底をつき、中隊に配るものがなくなり、各中隊の兵は、それぞれ山の中や谷川で採取できる草木や木の実、飛んでくる昆虫、這っている虫、泳いでいる小魚、オタマジャクシ、イモリ、ムカデ,バッタ。カタツムリ、蛙等々、なんでも口に入れ、飢えをしのぎ、命をつないだ。

  この頃、年配の一等兵が栄養失調とアミーバ赤痢で、異国の土になってしまった。奥様や子ども達はいたのかどうか、励ますことも出来なかった。





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2012年02月18日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 11


 山岳陣地といっても、近くの岩石を適当に積み重ねた粗末な陣地で、強力な火力を持つ敵の侵攻を防ぐには、切り込み隊を編成し、敵の野営地に切り込み、前進を阻止する以外よい作戦はなかった。

  早速、大隊長は警備中隊に切り込みを命じた。谷本警備中隊長は自らがその責任を果たすべく切り込み隊長となり、兵5〜6人を連れて敵の野営地に切り込んだ。敵を退却に追い込んだが、中隊長と兵二人が戦死してしまった。

  補給中隊は、僅かではあるが大隊が保存している食糧、弾薬、衛生医薬品等を次の転進地点まで搬送していたが、第四航空指令部から現陣地を死守せよと命令してきたとのこと。柴田補給中隊長は「いよいよ玉砕だ。遺書を書いて出せ」と隊員に命令。

  私は、この機に遺書を書いても、一体誰が届けるのか、バカなことと思いながら軍隊手帳の1枚を破り、「お母さん、孝行できずごめんなさい」と書いて出した。私の孝行を期待していた母の心中を察し、これが最期かと、ついに泣けた。

  中隊長は、玉砕を前にそれぞれの兵士がいかなる決意、いかなる感慨を持っているのかが、知りたかったのだなと想像した(集まった兵の遺書は果たしてどうなったのか、中隊本部功績係に聞けないままに終わった)。





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2012年02月17日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 10


3) 飛行場を放棄し山岳陣地で抵抗

 年が明け、米軍の地上部隊が南北から上陸し(北はスリガオ・カガヤン、南はコタバト・パダダ)、本格的に攻撃してくるというのに、わが大隊に対しては食糧も対空兵器も医薬品も全く補給がなくなり、一体これからどうなっていくのか不安が募りだした。

  第四航空司令部は何の補給もしないで、ただ飛行場を死守せよと命ずるばかり。4月下旬になって、飛行場を放棄し、山岳地に撤退して陣地を構築し、玉砕覚悟で徹底抗戦せよとの命令。

  大隊は地元住民の協力を得て、ワニの棲むプランゲ川にロープを張り、敵の撃ちまくる砲弾をくぐりながら、兵隊と物資を小船で運び、湿地帯をくぐり抜け山岳地に到達。早速陣地構築。

  一夜明けると、驚くことに昨日まで協力していた現地人が、折角運んでくれた食糧や医薬品等の一部を奪い逃走。大隊長、中隊長、小生とで追跡して射殺するか相談したが、結局,食糧はもともと現地人のものを調達したものであり、部隊の今後行き先も話していなかったので、米軍に知らせることもしないだろう、これまでの信頼関係を信じて見逃すことにした(後日投降した時、もし殺していたら現地軍人裁判で絞首刑に処せられていたかもしれなかった)。





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2012年02月16日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 9

 
  1時間半くらいたって、第二波の爆撃が始まった。第一回の爆弾であけられた大穴に飛び込み、機銃掃射の死角を求めてぐるぐる大穴の中を廻った。

  爆撃は三波にわたり、計120〜130機の攻撃を受け、木元軍曹以下10名の戦死者と20数名の負傷者を出し、滑走路及び兵舎は爆破焼失、燃料置場、ガソリンタンク車、修理車、運搬用トラック等も爆破炎上してしまった。

  戦場整理と戦死者の慰霊祭も終わり、わが修理班の人員を確認して、焼け残った兵舎の片隅で、一体、日本の陸軍・海軍の航空隊は何をしているのか。1機も空中戦に来なかったのはなぜか。また当大隊にも対空火器は全然無かったのか。口には出せないが、火器にこれだけの差があれば、到底勝つことは望めないと考え込んでしまった。

  以後米軍は、4〜5日おきに軽い爆撃を繰り返す程度に鳴りをひそめていた。わが方は兵舎が殆んど焼かれてしまったので。生活の拠点としての横穴防空壕堀と、滑走路の弾痕埋めに追われていた。





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2012年02月15日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 8


2) 9月9日、大空襲による大惨事

 忘れられることがないのは、田舎では秋の節句といわれている9月9日のことである。

  
朝食が終わった頃、「オーイ、友軍機がやってきたぞ」と喜びの大声をあげた。待望久しかったのでみなが兵舎から飛び出し、喜びの手を振って迎えた。

  飛行機はまるでカラスの群れが飛んでいる様だ。40〜50機が比較的軽い音を立てて飛んでくる。ところが急に高度を下げだし、急降下しだした。隣にいた少年航空兵の大沢伍長に、余り急降下だから飛行機には着陸できないのではないか、といったとたん。「あっ、敵機だ」「みんなタコ壷に入れ」大隊長が遠くから叫んだ。

  爆弾と焼夷弾が雨のように降ってきた。小生も思わずタコ壷に飛び込んだ。隣りに爆弾が大音響で炸裂し、土が小生の頭から降ってきた。首まで埋まったが、幸い頭は出ていた。隣に目をやると、首が無くなったように見える戦友の死体が横たわっていた。小生の鼻から血が流れ出ていた。神の護りか、軍隊は運隊といわれるが、3メートルの違いで小生は助かった。

  第一波の攻撃が終わったので、小生を埋まった穴から引き上げてくれた。見渡すと飛行場は穴だらけ、兵舎や自動車は半分くらいが焼夷弾によって燃えており、手のつけようもなかった。





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2012年02月14日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 7


1) バレンシャ飛行場での活動

  神のご加護か7月20日、当時としては珍しく無傷でマニラに上陸することができたのであるが、上級の第4航空指令は、第133飛行大隊をどこの島の、何と言う飛行場に配属すべきか、作戦本部は混乱していたようである。  

 8月3日、漸くミンダナオ島バレンシャ飛行場と決定(その間、約2週間、不衛生なサンザロ競馬場に野宿)。約400トンの小さい輸送船「大勇丸」に乗船、散在する小島を縫いながら敵の航空機、潜水艦の被害を受けないよう、約2週間もかけ8月15日、無事ミンダナオ島カガヤン・リザール公園に上陸。
  

 早速、積荷をトラックに積替え、夜間運行を承知でバレンシャ飛行場へ。幸い兵舎は既に飛行場設営隊の手により建設されており、雨露にぬれることもなく助かった。勿論、野戦の兵舎であるから、兵舎といっても竹とカヤを材料とした粗末なものであった。
  

 敵機は時折偵察機らしいものがやってきて来ていたが、空爆の気配はなかった。それよりも友軍機は一向に飛んでこず元気が出ない。大隊長の命により兵舎の周辺にタコ壷や、小山の中腹に防空壕を掘ったり、バナナ畑に自動車を隠蔽したり、修理工場を整備したり、待避所や衛兵所を作ったり、作業は次々あって、結構多忙な日々を送っていた。




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2012年02月13日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 6



3
 ミンダナオ島(バレンシャ)時代

   19444月、小松飛行場で新たに編成された第133飛行大隊に転属した私は、7月中旬、門司で輸送船「安芸丸」に他の部隊と一緒に積み込まれ、船内は身動きできない大混雑。

   そのときの輸送船団は14隻の輸送船に、護衛艦が7隻もついた大船団で、南方諸島に向かって出港。台湾まで平穏だったが、これから先のバシー海峡は、既に制空制海権とも米軍に握られ、死の海と呼ばれて、多くの輸送船が撃沈され、海の藻屑になった海峡である。

   幸い「安芸丸」は、彼方水平線に吹き上げる火柱や浮き沈みしている貨物や人影を見ながら、救助するすべもなく、7月下旬、奇跡的にマニラ港に入港した。埠頭には本隊が乗船していた輸送船が撃沈され、九死に一生を得て救助された兵が、次の所属部隊が決まらず右往左往しており、悲劇そのものだった。





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2012年02月12日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 5


 チャムスの軽重隊で、故あって乙幹の軍曹になり、内務班長を務めているときに反逆事件を起こしてしまった。ある日、師団の兵器部長の兵器検査を受けることになり、連隊長から中隊長を通じ、検査の前には徹夜で馬を手入れし、検査に遺漏なきようにと各内務班長に命令が出た。内務班は25〜30頭の馬を管理していたが、私は消灯になったら徹夜させないで兵隊を就寝させた。
 

  翌日の検査で兵器部長の講評は、私の班だけが良くなかった。愛馬家といわれる連隊長は中隊長に「下士官一人や二人をよう使わないのか。処罰せよ」と命じた。 

  中隊長と私の押問答が始まり、「何故、徹夜で馬の手入れをしなかったのか。命令違反だ」「馬より兵隊が大切だから、馬が綺麗でも兵隊が睡眠不足では馬を使えない」「軍隊は理屈ではない。命令どおりに動くところに皇軍の強さがある」「満州が戦場なら、私は理屈を言いません」  

 「本来なら上官の命令に従わなかったので軍法会議行きだが、今、日本は軍隊が足りない。特に南方では、お前どうなるか覚悟しておけ」と中隊長との口論は一時間に及んだ。そういうことがあって,南方飛行場部隊の第133飛行場大隊に連隊で、ただ一人だけ転属させられることになった。





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2012年02月11日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 4



 その日の演習は予定通り実施され、夕食が終わった頃、教官(少尉)が「谷口二等兵、中隊長がお呼びだ。早く行け」と。またやられるのかと、恐る恐るノックをして中隊長の前に不動の姿勢で立った。ところが予期に反して「己はぶってやれと命令したが、実は戦友愛に富んだ立派な初年兵だと、心の中で泣いていたのだ」と語ったのだ。

  私は、ああ助かったと胸をなぜおろした。中隊長も初年兵が教育助手からどんな教育を受けているのかは十分承知していた。そして「義をみてせざるは勇なきなりの精神は忘れるな。頑張れ」肩をたたいて誉めてくれた。

  この戦友愛が連隊長に達し、褒賞休暇3日間を受けるとともに、模範兵にされてしまった。ところがこの模範兵のレッテルは後々に、へまをやると「それでも模範兵か」と責められ、大きな重荷となってしまった。





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2012年02月10日

谷口末廣さんのミンダナオ島戦争記録 3


2) 模範兵から反逆兵に

 姫路の連隊に入隊して1ヶ月あまりが過ぎたある朝、職業軍人でバリバリの中隊長が全員を営庭に集め、2800字に及ぶ、長い軍人に賜った勅諭を一行一行丁寧に解釈し、皇軍の皇軍たる所以と、兵の心掛けについて情熱を込めて教えていたときのこと。

  こともあろうに、同じ初年兵の河本二等兵が、睡眠不足から居眠りをし、持っていた三八銃を地上に落としてしまった。さあ大変。中隊長は烈火のごとく「軍人に賜った勅諭を謹んで解釈しているとき、天皇陛下から授かっている菊の紋章のついた三八銃を居眠りして落とすとは何事か。断じて許されない。中隊長以下全員が鉄拳制裁を加え、わが連隊精神をたたき込んでやる。よくみておけ」と、まず中隊長が往復ピンタを加え、中隊付将校、准尉、曹長、軍曹………と階級順にピンタを加えていった。

  河本の顔は腫れ鼻血が流れ、口から血が滲み、体が左右にゆれ,今にも倒れそうになってきた。私は思わず飛び出し、「河本、僕が代わってやる。僕をぶってください」と身代わりに立ってしまった。

  河本は声をしぼるように泣き出した。中隊長は「生意気な野郎だ。そいつをぶて」と、伍長、兵長、と次々に打たれた。こんな大勢から打たれるのは初めてで、目から星が散る実感を得たのは、この時が最初だった。鼻や口から血が流れだしたのをみて,「よーし、解散」と何も言わず去った。





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